2015年12月6日日曜日

「北海道鑛山畧記」:(六)砂金

(六)砂金
(トシベッ砂金*1)
開拓使事業報告*2に曰く「トシベッ」金田は「トシベッ」の上流に在り.膽振國ヤマコシ郡に屬す.砂金包含地及河底の面積總計凡そ九百六十七萬四千「メートル」平方.洗金塲適當の地及本河臺面積凡そ五百三十萬零五千「メートル」平方云云.

アンチセル調書*3に又「トシベッ」砂金のヿを記す.

東蝦夷日誌に曰く,「トシベッ」川河水清潔.水底の砂算するに足る.底平磐にて淵多し.水の清きは是れ全く金玉の氣あるが故なり.「グンベッ」川,軍兵衛なる者,砂金を掘し故名く.
又,カニカン岳は此邊の一大岳にて西は「トシベッ」,北は「ヲヒラ」「ヲリカワ」,東は黒松内「ヲシヤマンベ」の源なり.金銀玉石の氣多く,昔神か爰にて金銀を作り玉ひしと云傳ふ.
仝誌に曰く,「ウクルハツタラ」,「ハンケルフ子シユマヲイ」,「ヘンケロクチ」,「カヌチ」(借時鍛冶が住し處也),「クウヨシ」,「レーラクシ」,「チヨコシカマ」,「トハツタラ」(廣くして湖の如しと云ふ義なり),「ヲン子ハツタラ」,「ヘロシナイ」,「シユフヌンゲベルベ」,「ジンゴベ」(甚五平と云ふ者,砂金を掘て大利を得たる所なり),此邊には穴居跡多し.「ユウラツプ」土人は皆此所より移しと云ふ.
仝誌に曰く,「カ子カルハツタラ」金取淵と云ふ義なり.又た,「ハンケサカイマフ」と云ふ所は,昔「イヌマカン」と云ふ者住し由.今祖父の墓所あり.其祖父,平生栗を好み,死に臨て一個の燒栗を握り居,喰得ずして,我を埋むる所に植よと遺言せし故,取計ひしに生て今大樹となりしと.此者此川筋より砂金を掘り出し,頗る英邁の聞ある者なりしよし.
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*1:トシベッ砂金::トシベッ砂金:瀬棚郡利別川上流(現・今金町美利河付近).
*2:開拓使事業報告:開拓使事業報告第二編(明治十八年十一月刊行).
*3:アンチセル調書:不詳.早稲田大学の大隈重信関係資料に「アンチセル調書」なるものの一部が所蔵されているらしい.しかし,これは北大・北方資料室に所蔵されている「教師報文録」の一部を筆写したものである.従って,「アンチセル調書」というのは正式名称ではないようだ.なお,教師報文録には「教師報文録・第二」の「第四 黄金」に「トシベツ」河の砂金について記載がある.


(渡島國シリウチ川*1砂金)
開拓使事業報告に曰く,ムサ金田とは即ち,建久二年,筑前の舟子發見せし所の「シリウチ」地方を云ふ.此地方丘上高原及支流河畔等,黄金に乏き地を除き,概測すれば(中畧)全く洗金すべき地は三百二十三萬三千立方「メートル」にして,砂層厚さは平均二「メートル」なり云云以下畧す(まま)
蝦夷風俗言上書*2に曰く,「マツマエ」城下より九里餘にして「シリウチ」と云ふ温泉あり.此處は松前家先祖六代前,砂金多く出で,凡十數万兩の金を掘採す依之.其節より諸家中へ歳暮の祝儀として,砂金十匁つヽ賜りしよし.今に至りても其先例を以て歳暮の祝儀に,青銅十匁を賜はるは此古格の殘りたる事のよし.
蝦夷紀事*3に曰く,「シリウチ」地方にては砂金を取る事を知りて,金氣の蔓を追て窟中へ入る事を知らず.依て以前より金山を掘るヿなしと雖とも,實見するに掘たる跡なきにも非ず.然れとも之を調ぶれば,砂金を見掛て掘たるにて,金石を目當に*4掘たるにてはなし.夫故,銀山銅山等は猶更見知りたる者とてもなく,唯打捨てあるばかりなり.
蝦夷舊聞*5に曰く,逸史に言ふ,慶長十三年,大久保長安「マツマエ」より「シリウチ」金と云る者出るにより,彼を鑿せんヿを計りしに,島主・慶廣*6辭するに,地僻にして穀物を生せず,食を海運に資するが故に鑛徒を養ふ事能はざるを以てせしか.其事止たりき.又曰く,夷諺俗語に云ふ「マツマエ」の交易相塲,砂金を以て定む.砂金一兩と云るは,七匁貳分にて永*7七百貳拾文に當るなり.
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*1:シリウチ川:知内川.松前郡-上磯郡を流れる知内川.なお,この地域は「知内図幅」と重複するが図幅には砂金あるいは金鉱石については,一切記述がない.「武佐金田」については開拓史が地質測量図を発行している(未見).
*2:蝦夷風俗言上書:不詳.
*3:蝦夷紀事:不詳.坂倉源次郎の著といわれるが,所在,内容とも不詳.
*4:砂金を見掛て掘たるにて,金石を目當に…:この場合の「金石」は「金鉱石」の意味で使われている.従って,砂金がみつかれば砂金洗いのための沖積層発掘はおこなうが,砂金の母岩を求めて調査し,金鉱石を掘るようなことはされていないということ.
*5:蝦夷舊聞:不詳.鈴木善教が1854年ころに著したといわれる.所在,内容とも不明.
*6:島主・慶廣:松前慶広.松前藩初代藩主.なお,このエピソードはしばしば取り上げられるが,この記述ではあくまで「逸史に言ふ」である.
*7:永:通常,「永楽銭」のこと.明(中国)より室町時代に輸入され,慶長十三年に使用禁止令が出された.


(渡島國エサシ砂金*1)
開拓使事業報告に曰く,「エサシ」金田は渡島國ヒヤマ郡エサシ地方數里間の總稱なり.其面積,凡長六里幅一里厚凡二「メートル」.「エサシ」市街中「詰木石*2」金田,面積五十七万八千方「メートル」にして厚凡一「メートル」とす云云.
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*1:渡島國エサシ砂金:桧山郡江差町
*2:詰木石:現・愛宕町,新栄町近傍.


(クドー砂金)
開拓使事業報告に曰く,「クドー」金田は後志國クドー郡クドー村*1を距る南東凡一里「モシベッ」*2「ウスベッ」*3一河流に在り.「モシベッ」河畔地は北南に延び幅一二町.「ウスベッ」河畔地は稍廣く一町乃至四町半.砂層平均厚一「メー卜ル」なり云云. 下畧す.
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*1:後志國クドー郡クドー村:後志国久遠郡久遠村(現:久遠郡せたな町大成区久遠).
*2:「モシベッ」:不詳.現在「モシベッ」の地名は残っていない.
*3:「ウスベッ」:臼別川.図幅によれば臼別川上流には新第三紀の鉱化作用を受けた地帯がある.臼別川地域には金鉱床の記載はないが,尾根の反対側に同様の鉱化作用を受けたポン金ガ沢地域では金鉱が掘られた過去がある.


(マツマエ砂金)
開拓使事業報告に曰く,マツマエ金田*1は渡島國フクヤマ近傍にあり.往昔小區域の金田許多ありしも六七百年前より淘汰し,明治五年雇米國人「モンロー」巡檢の際は竭盡*2して見るへき者なしと云ふ.
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*1:マツマエ金田:大沢のことか.
*2:竭盡:けつじん=尽きること.すべてを使い切ること.


(センゲン嶽砂金)
松前蝦夷記*1に曰く,國中東南の方は山多く,西北の方は平地あり.山は岩多くして高し.高山の絶頂は多く金銀の氣,或は硫黄の氣にて焼け崩れたる土地*2にて,金氣多きヿ他國に比類なしと云ふ.
七十年以前(寛文八年戌申の頃)は,年々砂金を取り,領主にも納め,京大坂へも多く出したり.其砂金塲は松前領内にてはセンゲン獄シリウチ等なり.此センゲン嶽は「マツマエ」より八里ありて山々の峠を越るヿ,十一にして「センゲン」獄の半腹に至る.此絶頂に至りて見るときは眼目の及ぶ所は遮る者なく,南部焼山より津輕の岩城山,西は「ケンニチ」嶽*3「ラコシリ」*4海中に見へ*5,東は「ハコダテ」より北へ續て群嶽連なり,隔日山「ユウフツ」遠く見ゆ. 
「マツマエ」は直下にして船の寄る迄見るなり.是れ「マツマエ」中金銀山の根なりと云へり.又曰く金銀山の事は本業なれば深山幽谷へ,わけ入て人力の及ぶ處は吟味せり.然れとも土地廣く金銀山數多の事にて中々十分一も見極めざりし.
松前志*6に曰く,福山近邊にては欝金嶽を大嶽と云ふ.東部「シリウチ」川の源なり.福山より東北に當れり.其里程九里二十町餘なり.嶽の麓を離れて一段の平地あり.昔時金鑿の徒多く屋舎を建連ね,一大郷の如くなりけるよりして千軒とは名つけたり.然れとも嶽の本名にあらず.金の名は此山金氣盛なるか故に右より名つけ呼るよし.古老の説なり.此嶽夏日も又猶雪ありと云へり.
北海随筆*7に曰く,「センゲン」嶽は「マツマエ」郡中,金鑛の根山にして此邊第一の高峯とす.
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*1:松前蝦夷記:享保二(1717)年,有馬内膳一行の幕府巡見使の記録.東大図書館所蔵.北大北方資料室に写本がある.
*2:高山の絶頂は多く金銀の氣,或は硫黄の氣にて焼け崩れたる土地:千軒岳金山はいまだに謎の金山であるが,この記述からは,砂金ではないことがうかがえる.いわゆる鉱山用語の「焼け」を示しているようだ.
*3:「ケンニチ」嶽:見市岳(遊楽部岳).
*4:「ラコシリ」:「ヲコシリ」の誤記か.もとはi-kus-un siri「イクスン・シリ(向こう側にある島)」だという.「イクスン・シリ」が「ヲコシリ」さらに「オクシリ」に変わったとされるが,なんか不自然.
*5:「西は~海中に見え」:千軒岳からは,奥尻島・遊楽部岳(見市岳)はむしろ北方に見える.これは,当時日本海側を「西蝦夷」,太平洋側を「東蝦夷」と呼んでいたことに関係していると思われる.
*6:松前志:松前藩主・松前邦広の五男・松前広長(1737-1801)の著とされる.
*7:北海随筆:坂倉源次郎,元文四(1739)の作といわれる.


(センゲン山砂金)
三國通覽*1補遺に曰く,蝦夷地「マツマエ」城下より丑寅に當り,浅間と云ふ大山あり.近邊に勝れたる大山なり.古來より金銀多く出つ.松前家の先祖,此地へ移封の節,諸國より入込たる金掘人共残らず追拂しとぞ.右掘り取たる跡高さ數十丈.屏風の如く切立たる所あり.今其所を切通と云ふ*2.此山邊並に東西の山山残らず「ミヨシ」堀の跡,所々に多し(「ミヨシ」とは砂金の事なり).
蝦夷風俗言上書*3に曰く,松前城下より東丑寅に當り「センゲン」山と云ふ大山あり.古來より金銀多しと.
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*1:三國通覽:林子平(1785).
*2:右掘り取たる跡高さ數十丈.屏風の如く切立たる所あり.今其所を切通と云ふ:この記述は鉱脈状の産状を示していると読めるが,どうだろう.
*3:蝦夷風俗言上書:不詳.「蝦夷地風俗書上」(別名;「近事奇観」)なる写本が国立公文書館にあるらしい.松前矩広が記したといわれるが,原本および内容は不詳.


(クンヌイ砂金)*1
開拓住事業報告に曰く,「クンヌイ」金田は謄振國ヤマコシ郡に在り.
明治四年十一月,雇米国人開拓顧間「ケプロン」報告中,幕府雇米国人博士「ブレーク」報告の要を摘して曰く,「クンヌイ」金田は「トシベツ」川の本支流に沿ひ,延て數英里に亘る.二三百年前淘汰の跡あり.其何人の所業たるを知らず.
文久二年,幕府試掘の時は,一日の費用三弗にして,大凡五十弗に値る黄金を得たりと.
東蝦夷日誌に曰く,「セヨヒラ」と云ふ處は,海扇淺蜊の殻出るを以て名く.「シヤマツケハツタラ」「タン子ウツカ」「ルフ子シユマヲイ」「ヤリスケ」此處廣くして網曳場なる故名く.昔しは「クンヌイ」より此處へ馬路ありしと.其頃は金鑛至て盛にして,文化年間,石井善藏・高橋治太夫・高麗鱗平等,此處を切開,砂金六百金を献し,追々人家も建ちしが惜むべし,文政五年より廢山とせしよし.「サンシローフチ」と云ふ所あり.三四郎なる者,砂金を多く得たる處なるを以て名く.
東蝦夷日誌に曰く,「クンヌイ」川に砂金あり.極上々品を出す.
北海随筆に曰く,七十年前以迄は松前より砂金取り五千餘人程つヽ入込みたりと云ふ.金掘屋敷と云ふは「クンヌイ」と云ふ處にあり.一年蝦夷亂のありしより和人とも蝦夷地へ入り込むヿ制禁となりて,夫より砂金取に行く者なし.其砂金の生ずる根原は必ず金氣あるべき故,是を吟味せし處,此の「クンヌイ」の河原に金山あり.其證據相糺し,現に見極たり.此地砂金を取るヿを知て金草の蔓を追て窟中へ入る事を知らす.依て以前より金山を掘ると云ふ事なし.今希に見るに掘し跡なきにも非ず.されとも砂金を見かけて掘りたる者と思はる.
蝦夷舊聞に曰く*2,寛文の初に當りて蝦夷東部「シイチヤリ」に「シヤムシヤイン」又名「シヤクセン」と云ふ者あり.丈高く骨太く力人を兼たりければ,蝦夷人共大に恐れて屬従する者數万人に及べり.其居「シイチヤリ」川を前にして柵を築きて住せり.奴僕貳百人餘ありと云ふ.此「シイチヤリ」の山より金黄多く出でしかば,松前の人も常に往還し,諸國より採鑛の夫も多く集りしが云云.
續蝦夷草紙*3に曰く,蝦夷地「ヤムクシナ井」と云ふ處,大河ありて「ユウラフ」と云ふ又「クンヌ井」と云ふ處あり.此處より砂金を出す.
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*1:(クンヌイ砂金):本文中にあるように,「訓縫金田」は訓縫側ではなく,峠を越えた利別川側にある.
*2:蝦夷舊聞に曰く:本文にあるとおり,これは「訓縫金田」の記述ではなく,シベチャリ金田についての記述である.
*3:續蝦夷草紙:続蝦夷草紙.近藤重蔵の著(文化元;1804)とされる写本.


(ハポロ川砂金)*1
蝦夷行程記*2に曰く,「ハポロ」(天鹽)と云ふ處,砂金あり.
三國通覧*3に曰く,西蝦夷國「ハポロ」と云ふ處に大なる砂原あり.その長さ五十里計なる間處々より砂金出づ.
観國録*4に曰く,「ハポロ」川を泝るヿ三日程にして「ハポロ」山下に出つ.金鑛あり.今之を廢す.然れとも,砂金此邊に流れ來ると云ふ.今見るヿなし.此川幅二十間餘なり.
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*1:(ハポロ川砂金):羽幌図幅には「海岸段丘堆積層・河岸段丘堆積層および冲積層の砂礫中に,砂金および砂白金が存在することが古くから知られていて,椀掛けによって容易にこれを検出することができる.」とある.また,海岸沿い北方約8kmには「三浦金山」があったと記録されている.
*2:蝦夷行程記:阿部将翁著,松浦武四郎校正.安政三(1856)年刊.
*3:三國通覧:三国通覧図説.林子平(1738-1793).
*4:観國録:観国録.石川和助(関藤籐蔭)が老中・阿部正弘の命をうけ,蝦夷地,北蝦夷地の調査をおこなった記録.全7巻.安政三~四年(1856-1857),調査及び著述.


(十勝砂金)*1
北海随筆に曰く,「アツケシ」の手前「クスリ」カ嶽の麓に金山あり.「コガ子」山と云ふ.此邊「トカチ」と云ふ處は砂金あつて以前も取りし事あれば金山あるべきヿなり.
續蝦夷草紙に曰く,「トカチ」と云ふ處,東蝦夷地第一の大河あり.此邊も皆砂金を掘りし跡あり.三代将軍の御代々「マツマエ」より砂金百兩を献上せしかば,「マツマエ」蝦夷地中の金山を残らず拝領の義,仰せ付られんと.
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*1:(十勝砂金):「「クスリ」カ嶽」も「「コガ子」山」も不詳.したがって「十勝砂金」は不詳.


(ペルフ子砂金)
東蝦夷日誌に曰く,十勝國ペルフ子*1近傍,セキ川*2近傍,往昔金を掘りし跡あり.
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*1:十勝國ペルフ子:十勝国歴舟川.
*2:セキ川:不詳.


(ヲタベッ砂金)
東蝦夷地道中日記*1に載す「コロブニ」と云ふ所より平山を越ゆ.此平山,柏木多く半里許にして「ヲタベツ」と云ふ澤*2あり.水流る此邊,砂金を掘たる跡あり.是を蝦夷人「セキ」と云ふ.即金山を掘るヿの言傳へならんか.
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*1:東蝦夷地道中日記:不詳.類似の書名はいくつかあるようだが,同名の書は見いだせない.
*2:ヲタベツ」と云ふ澤:不詳.


(フトロ川砂金)
蝦夷行程記*1に曰く,「フトロ」*2(後志國)川砂金多しと.
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*1:蝦夷行程記:前出.
*2:「フトロ」:後志国太櫓郡(現・久遠郡せたな町)


舊記
ライマン著「北海道地質總論」に曰く,黄金の痕跡は(鐵砂の如しと雖とも其量甚た少し)諸所に在りて,其區域實に莫大なり.然れとも其採集に堪すへき者は「トシベッ」「ムサ」の兩金田のみに云云.
北海随筆に曰く,國中金氣多きヿ,餘國比類なし.七十年以前迄は年々砂金を取るヿ夥敷云云.
松前東西管闚*1に曰く,「トカチ」「ウシベツ」「シリウチ」「クンヌイ」「ユウハリ」,此五ケ處より追々寛永十八年の頃迄は山穿出し出金有之.夫より打絶無是候所,元祿十三年より七八ヶ年の内,西蝦夷地「ハポロ」へ二三千人つヽ金掘参り候處,度々破船云云.
北海道誌に曰く,建久二年,筑前の舟子,蝦夷「シリウチ」に漂着し,水を索めて山に入り,一小金塊を獲,甲斐の領主・荒木大学に呈す.大学,之を鎌倉将軍・頼家に献ず.頼家,其賞として米千石を大学に賜ふ.大学,亦祿百五拾石を發見者に與へ,名を荒木外記と稱せしむ.是に於て頼家,大学に命じ外記を嚮導とし,蝦夷に趣き,金鑛を開採せしむ.大学,役夫及陶金者八百人,修験者一人,兵卒合て千餘人と共に,仝年六月,甲斐を発し,七月ヤゴシ(今渡島國カミイソ郡)に抵り,疊を「ケナシ」嶽に築き,砂金を洗陶す.「シリウチ」に始り,「ムサ」川及其支流に及ぼし,採集する凡十三年間,多く黄金を得たり云云.
東蝦夷道中日記に曰く,「アイブシマ」*2と云ふ處,河跡の如き掘あり.往古砂金を掘りたる跡なりと.
續蝦夷草紙に曰く,「ニイカフ」「シブチヤリ」など言ふ處,皆砂金を掘りしと.
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*1:松前東西管闚:不詳.表題からは,松前藩による蝦夷地の諸統計・情報誌と思われるが所在不明.
*2:「アイブシマ」:アイボシマ川(広尾郡大樹町を流れる).
 

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