2014年2月8日土曜日

「ワッソン報文」より

 
報文の正式名称は不明である.
報文は「開拓使顧問ホラシ・ケプロン報文」中(p. 371-390)にあるが,目次には「ゼームス,アール,ワツソン氏北海道初期測量報文摘要」とあり,当該報文の標題は
「開拓使測量長ゼームス、アル、ワスソン」
「北海道初期測量報文摘要」
とある.ここでは仮に「ワッソン報文」と呼んでおくことにする.
冒頭の注では「1874年3月30日付けで,ワッソンがケプロン将軍に提出した報文の摘要」であることが示されている.ところが,本文では冒頭に「千八百七十四年第三月十四日」からの行動が示されている.報告書は前年の業務の報告であるはずで,本文が1874年の行動であるはずがない.
また,ワッソンは1874(明治7)年4月に陸軍省に転出したはずなので,1874年に測量行ができるはずがない.したがって,冒頭の日付は1873年の間違いであると判断する.
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1873年3月初旬,ワッソンは「北海道三角測量事業」の命を受ける.正式名称は不明である.仮に「北海道三角測量事業」と呼んでおく.この事業は途中で中止され,残った三角測量は福士成豊が引き継ぐ(たぶん)が,三角測量事業全体としては,のちに終了したことになっている.区別しないのは混乱の元である.
また,ワーフィールドが前年「札幌本道の建設にともなう測量」を行っているが,これは「地形測量」を前提とした「三角測量」ではない.したがって,これも区別されるべきである.

ワーフィールドが測量補助につかった生徒のうち6名を「北海道三角測量事業」に引きつづき使用することをワッソンが要請している.この間の経緯は不詳であるが,結局「札幌本道測量事業」に参加した数名は「北海道三角測量事業」にも参加しているらしい.
摘要には,ワッソンは10名の補助を要請したことが書かれているが,東京で決定した人員は以下のようであった.

補助 荒井都之助
補助生徒 溝口,關,野澤,永井,奈佐,松本,竹村,寺澤
訳官 井添
事務官 平林

「補助」と「補助生徒」にどのような差があるのか不明であるが,合計9名で要求より1名たりない.後に加わるデイが10人目かもしれない.
前年の「札幌本道測量」の時には,ワーフィールドにはJ. R. クラークが補助兼通訳として参加していたが,「北海道三角測量事業」からははずされており,ワッソンは日本人通訳は測量術を知らないので専門用語の通訳に難があることを嘆いている.
ここでは,荒井郁之助のほかは姓以外不詳であるが,別の資料からわかる名を記しておく.

荒井郁之助(開拓使五等出仕)(1875当時)
溝口善輔(開拓使十三等出仕)(1875当時)
野澤房迪(開拓使十三等出仕)(1875当時)(沼津兵学校出身)
永井直晴(開拓使十三等出仕)(1875当時)
関 大之(開拓使御用係)(1875当時)
奈佐 榮(開拓使御用係)(1875当時)(沼津兵学校出身)
松本安宅(開拓使 史生)(1875当時)
竹村義晴(開拓使 史掌)(1875当時)
寺澤正明(不詳)

1873.03.14(原本では「千八百七十四年第三月十四日」)
ワッソンが申請した外国人補助と測量機器は,USAに発注されたと記述.
1873.04.19
・日本汽船・北海丸に乗船し,4月29日,札幌に到着.
1873.05.05
・小樽から送付の機材・食料が到着(!),「同日一同野業に取掛れり」
・一同「ワツ(輪厚)」まで移動.昨年の札幌本道建設作業の残務を処理する.
ワッソンは,三角術測量のための基線設置に適地を探していたが,石狩川の150~200マイル上流に広原があることを知った.その実地検分のために「少人数にて該所迄,石狩川を遡るに決したり」.

1873.05.25
・ワッソンは荒井,井添,平林にアイヌ語通訳一名を加え,篠路から船で出発した.
1873.06.06
・45里上流の「イチヤン(一已)」に到着.急流のため,和船を「土人舟(チプ?)」に乗り換える.ときどき,アイヌ船でも危険なところがある.
1873.06.08
・小支流「ヒルシナイ(?春志内)」川口に露営.
1873.06.09
・「広原の下端なる「カワカミ(上川)」に着せり」
いわずとしれた(現)「上川盆地」である.
残念ながら,ここでは三角測量の基線を引く場所は見いだせず,帰途につき7月7日札幌に帰った.
当時の上川盆地は,のちに訪れたライマンが思わず「カジュメア!(インド北部の避暑地)」と叫んだほどの一大森林地帯で,10数kmの基線を引く場所は,容易には見いだせなかったのである.
ワッソンの上川盆地についての評価を記しておく.
「此原は四面山を遶らして暴風を防ぎ,且気候温かなり.加るに水利ありて木材に富み而して土壌肥沃なり.」
確かに,現在の上川盆地(旭川周辺)は四面を山に囲まれ,強風が吹くことはめったにない.「気候温かなり」というのは,冬期間を経験しなかったワッソンの誤評価であるが,6月の旭川であれば,札幌よりも暖かいかもしれない.
札幌の残留部隊は,測量機器の使用法を訓練していた.

ワッソンは,帰札ののち,あらたな基線候補地を探して「東海岸の勇払に向て」出発した.勇払方面を東海岸という表現は不正確である.それは,松前藩時代以来,日本海側を「西蝦夷地」,太平洋側を「東蝦夷地」と呼んでいたなごりであろう.
結果,勇払-鵡川間に適地を見いだした.ワッソンは,ほかに函館の平野部および黒松内低地帯を助基線の候補地にあげている.

1873.07上旬
・ワッソンは,松本鎮台(松本十郎:1873~1876.7開拓使大判官.「アツシ判官」の異名を持つ)の依頼により,石狩-札幌間の運河設置について判断調査を行う.結果は「良運河を造るヿ能はざるなり」.
1873.07.18
・連邦海軍大尉「M. S. デイ」,札幌着.
しかし,測量器械未到着のため「西海洋より噴火港迄を測量し,期に至りて函館に赴き,器械を得て勇払に至らんと決」した.

1873.07.27
・ワッソン,デイ,荒井,永井は札幌を出発.小樽内から長万部にいたり噴火港をまわって,8月3日に函館に着いた.(小樽内:現在の小樽市ではなく,札幌-小樽間にある星置川下流を小樽内とよび,過去松前藩によるオタルナイ場所があった)
1873.08.04
・函館に着いた船便には基線測量用および天文測量用の精密機器はなく,小型機器のみであったため,精密機器の到着まで小型機器を用いて「石狩川及ひ其支流の河畔なる広原等を測量するに決」した.この地域は北海道開拓の要地であり,いずれにしろ三角測量の必要な土地であったからだ.
・甲乙丙丁,四組に分け作業を進める(正式な名称かどうか不明:この名を使う).
甲組:デイ,荒井,松本+林訳官
石狩川河口より測量開始し,茨戸河口まで測量の予定(「其浅深を量り」とあるから,川底までの深さも測定した模様).
乙組:関,奈佐
「「タランシツト」を用ひ「バラト」,篠路,豊平の三川及ひ其支流を測量するヿに担当せり」(「タランシット」は「トランシット」のことで,「バラト」は茨戸).
丙組:溝口,野深
千歳川及ひ其数支流を測量
丁組:ワッソン指揮,永井・竹村・井添・平林(但し,井添は訳官,平林は事務官である)
石狩川を,茨戸河口から上流へ.
精密測量機器が未着であるため,アリダードを用いた平板測量,スタジア測量を用いたとある.

1873.09.02
・甲組,乙組,丙組出発.
「此器械を整備するが為め」日数を重ねたとあるが,機器の作成かあるいは修練のためかは不明.
・ワッソンは,舟を扱うアイヌが見つからなかったため出発が遅れた.理由は,石狩川の急流では,アイヌの方が和人より操船が巧みであるからでる.
1873.10.18
・ワッソン隊は石狩川支流・アイベツ(愛別)河口に到着した.
愛別は上川盆地の北の端にあり,石狩川はここから大雪山麓の渓谷に入る.舟での遡航は困難になり,また気候は晩秋を迎えていた.これ以上の遡航を断念し,10月12に野営した「シユーベツ」(忠別つまり現在の旭川付近)河口まで戻り,「シユーベツ(忠別川)」の測量に切り替える.帰途,舟二隻を転覆させ,機材流失.21日,忠別川の測量を始めたが天候不順のため遅延.26日,「バイー河口」にて終業(「バイー」は不詳.しかし「石狩川図」を見るかぎり,ワッソン隊は忠別川を遡ったのではなく,美瑛川を遡った可能性が高い.そうであれば,「バイー」は「バイエ(Biye)」すなわち現在の美瑛だと思われる).
1873.10.31
・ワッソン隊は空知河口へ.空知川測量を試みるも,季節はすでに初冬.作業不可能のため帰札へ.
1873.11.06
・ワッソン隊,札幌に到着.同時期,甲組(デイ隊)は石狩河口より幌向河口(現・南幌駅付近)までを測量し終わり,ほかの各組も予定を終了して札幌へ戻った.
1873.11.24
・ワッソン,デイ,荒井,東京へもどり,製図を開始する.
なお,通常「北海道石狩川図」と呼ばれる図は,この時の報文に添付されたものらしい.
・この年の成果は以下.

測量せる川名        停脚所の数        測量せる里数        測量者の名
石狩        1,050        150.82        ワスソン
チユーベツ        78        10.04        ワスソン
バラト        456        17.65        関
篠路        546        17.65        関
豊平        580        36.14        関
千歳        233        10.36        溝口
夕張        459        40.76        溝口
フシコユーバリ        41        3.13        溝口
モナメ        18        1.66        溝口
ユーニ        50        3.00        溝口
ヘルベツ        25        1.61        溝口
アノラ        155        6.24        溝口
ハシヤンベツ        31        1.24        溝口
パンゲトラタ        18        0.78        溝口
パンゲトラタ        22        0.88        溝口
ウエムベツ        49        1.82        溝口
スタベツ        43        1.80        溝口
ツクベツ        72        3.00        溝口
クオベツ        60        2.68        溝口
シマタツプ        288        14.60        溝口
ワツ        138        8.38        溝口
幌向        211        10.50        松本
イクシベツ        ー        ー        松本

ワッソンは,この報文に付け加えて,石狩河畔は農地に最適であることを示している(事実そのとおりになっている).しかし,「カモイコタン(神居古潭)」より下流域は水害があるであろうことも指摘した.
また,神居古潭より上流は「河上と云ふ」(としているが,これは「上川」の間違いであろう:翻訳者のミス)とし,上川はそこに通じる道がないことで開発困難であることを指摘した.
また,石狩川は幌向より上流は舟での遡航は困難で,喫水が4~5尺の船は空知河口までのぼれるが,それより上流は大型船は不可能であるとしている.
さらに,来年の測量の準備が整っていることや,デイや荒井の能力の高さを強調している.
以上.

昨年は,旭川-石狩間を何度となく,車で走った.北海道の広さを改めて実感した.
わずか百数十年前,道もないこの地を,徒歩や小船で,未来を信じて歩き回った人々に(その多くは名前すら残していない)感動を禁じ得ない.
 

2014年2月5日水曜日

福士成豊の測量

 

福士成豊が開拓使・函館支庁の命により道南部の測量を行っていたらしいことはわかるのですが,それがいつ頃,どのような範囲で行われたのかは曖昧です.
そこで,デイ(1877)の「北海道測量報文」と大蔵省(1885)の「開拓使事業報告」を基本に,いくつかの文献をクロスさせて探ってみました.

正式な報文があるのにわかりづらいのは,デイが英文報告書を提出したのが1876. 3なのに,和文報告書は1877. 12出版であり,相対的年数表示「昨年」あるいは「一昨年」という書き方が「いつ」を示しているのかよく判らないことでです.
一方,大蔵省(1885)の「開拓使事業報告」は報告書そのものではなく,編集文であるため,省略が多い様です.デイが関係した「三角測量事業」という書き方ではなく,途中からデイ抜きの「測量事業」が書き込まれていたりします.そのままでは信頼性が足りないように思われることです.


以下,デイの報告書から「北海道三角測量事業」の海岸線測量について,時間・場所を明記して編集してみました.

1874(明治 7)年6月,沿岸線測量隊は二班を構成.「勇払基線*」から測量を開始した.
一班は東進し襟裳岬方面へ.この年は勇払から歌別河口まで測量終了.
二班は西進し噴火湾方面へ向かう.この年は勇払から旧室蘭駅まで測量終了.

翌1875(明治 8)年は,四班を構成.
松本班・水野班は5月28日に出発した(たぶん函館から).
松本班(加藤補助)は,昨年度終点「幌泉と襟裳岬(昨年,此崎迄測量せり)との間ベツベツ河口**」から測量を開始し,根室で終了した.
水野班(菅沼補助)は,「其昨年測量せる最尾の標杭(噴火湾の北岸紋別***近傍)」から測量を開始し,有珠湾を通り長万部から渡島半島を縦断,日本海岸を岩内-古平-余市-忍路-小樽内(星置川河口)まで測量し,竹村班と合流した.
野澤班と竹村班は5月31日,函館丸に乗船し宗谷へ.
野澤班(木村補助)は,宗谷より東進し,8月28には知床岬まで測量を完了し,10月上旬,根室に達し松本班と合流した.
竹村班は,野澤班の第一杭から測量を開始し,西海岸を小樽内方面へ.10月下旬水野班と合流した.

1874~1875の二年で,道南部を除くすべての海岸線を踏破.測量を終わる.

「右(上)四氏の事業と昨年永井奈佐両氏及ひ一昨年福士氏の施す所とを以て北海道本島の沿海線測量は全く成就せり」(北海道測量報文;デイ,1877)
したがって,1874年の二班は「永井班」と「奈佐班」であり,福士成豊は1873(明治 6)年に道南部海岸線の測量を終えていたと考えられる.


デイが測量長になったのが1874(明治7)年4月で,「北海道測量事業手続書(計画書)」を提出したのが1875(明治8)年3月で,それから本格的な三角測量が始まったわけですから,函館支庁が福士に測量を命じたのがいかに早いか,またそれを一人で(かどうかは不明ですが)こなした福士の能力は記しておくべきことでしょう.実際に,どのようなことが行われたのか,それを知ることはもう不可能なのでしょうか.
福士は記録を残していないのでしょうかねえ….

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*勇払基線:三角測量の基本となる線のこと.当初,石狩浜で設定を試みたが,適切な土地がなく,勇払-鵡川間に設定された.勇払側の基点は道の文化財となっている.鵡川側の基点はいまだ不明.
**ベツベツ川:たぶん「歌別川」のこと.
***紋別:伊達紋別
 

江戸末期〜明治初期の蝦夷地測量事情=キーマン・福士成豊=

 
訳あって,江戸末期から明治初期にかけての地形図測量事情を調べています.
あまり興味が無いけど,ライマンの地質調査の背景がわかればと….

この話題のキーマンは「福士成豊」のようです.
でも,残念なことに情報がほとんど無い.理由は,たぶん,彼が町民の出だからだと思います.明治政府や開拓使に取り入ってボロもうけもしなかったし,政治にも関わらなかった.勇ましいこともしなかったから,いわゆる“歴史家”からも注目されていない.
まとまった記録(伝記など)はないので,同時代のいろいろな記録から絞り込んでいくしかないわけですね.



おぼろげながら,彼の業績が見えてきました.
開拓使が御雇外国人や荒井郁之助などを活用して,やっとの思いで北海道の(現代的な意味での)地形図作り(三角測量による)を始めますが,じつは成豊がすでに道南部で始めていた.彼は,箱館在住のブラキストンから,測量術も学んでいたのです.

成豊の能力・業績は,たぶん初期には認められていなかった.町民だから.

でも,御雇外国人が認めた彼の能力は,結局,開拓使・明治政府(この場合は道庁か?)も認めざるを得なかった.で,逆に費用のかかる御雇外国人は切り捨てられて(これがたぶん,「北海道三角測量事業」が事業半ばで中断された理由),成豊があとを引き継ぐことになるわけですね.
また,その頃には,御雇外国人の指導下,測量術を身につけた若者が多数出てくることになる.

一方,無節操な開拓使のやり方に腹を立てた荒井郁之助は,もともと黒田らとそりが合わなかったこともあって,辞任してしまう.
そんな事件があったのだろうと推測します.

残念だけれど,こういったことを裏付ける資料のありかは私にはわからない.あったとしても.たぶん見せてもらうことができない.
このへんが限界.