2009年3月4日水曜日

斐三郎の失敗?

 

 前の記事で,武田斐三郎の熔鉱炉について,その評価に疑問があるので資料を集めていると書きましたが,意外と簡単なところで,光明が見えてきました.
 斐三郎の熔鉱炉は,(成功したという)記録がほとんどないので,失敗したと考えられてきましたが,そう考える理由というものは,今ひとつ納得できないものでした.ひどいのは「技術が未熟だったから,失敗した」という完全なトートロジーで終わらせているものもありますが,かなり綿密に検討している場合でも,今ひとつ論理がつかめない,今ひとつ裏付けに欠けるんでは…と,思われるものばかりでした.
 それで,もう少し詳しく…と,思っても,前の記事で書いたように,情報の壁は厚いものでした.ようやく,検討できる状態に達したわけです.

 あっという間に解決しました.
 まだ,熔鉱炉計画のタイムテーブルができてませんので,完全にそうだとは言い切れませんが,多分間違いないでしょう.

 個々の研究者の論点についての細かい検討は別にするとして,だいたい誰もが「これが原因である」とすることは,砂鉄を高炉の原料に用いると1)(砂鉄が砂状であることが原因で)それが高温ガスの通路をふさぎ高炉の熔解メカニズムが十分に働かなくなること,2)(砂鉄に通常含まれる)チタン成分が高温でしか熔融しない鉱滓を生み出し操業不能となることです.

 とくに高木幸雄(1967)*では,「必ず次のような障害が起きるものである」と,福田連(1930)**を引用して,裏付けを示しています.福田は実験岩石学者なので,「そうか,無理なのか」と思い込んでしまいそうです.しかし,幸いなことに,この引用文献は雑誌「岩石鉱物鉱床学」であり,これらは同学会のDBで公開されていますので,誰でも見ることができます.

*高木幸雄(1967)古武井熔鉱炉に関する研究=幕末期蝦夷地開拓と外国技術=.人文論究,第27号.
**福田 連(1930a-c)含チタン可熔性礦滓の研究,特に灰長石,透輝石,[クサビ]石三成分系に就て(1〜3).岩石鉱物鉱床学,3〜4巻.

 実際に引用文献を読んでみると「びっくり」なのですが,福田氏の論文は,砂鉄を高炉の原料に用いると,上記のような困難が生じるが,工夫によって「鎔銑ができる」という論文なのです.実際に福田氏は福田氏以前の鎔銑成功例を何件も示していますし,その実験岩石学的裏付けが,この論文そのものなのです.
 「びっくり」でしょ.

 高木氏の論文はけっこう困った引用があって,たとえば,「道南地方は元来砂鉄が豊富で,古くから砂鉄の精錬が行なわれていた」として,「新撰北海道史」採録の「休明光記」を引用しています.実際にそれを見てみると,「志苔の砂鉄 貞享の頃,近江の商人西川庄右衛門が出願し,十二年営業した.正徳年中同じく近江の商甲屋平七が再び出願し許可されたが,収支償はず,幾くもなくして廃止した.」となっています(貞享元年は1684年.正徳元年は1711年です).
 ところが,天野哲也氏が,たたら研究会(1991編)「日本古代の鉄生産」で,「製鉄ということに限定しますと,古代に相当する時期,あるいは中世に,北海道では鉄の生産は行なわれていなかったと思います」と述べています.そして「僅かに近世末になって製鉄が行なわれた形跡が認められている」と付け加えています.

 この近世末の製鉄とは「古武井の熔鉱炉」のことですが,それも「試みられていたらしい」という程度です.つまり,文献的な証拠はあっても,発掘考古学的な証拠は見つかっていないということです.このことについては,何回か紹介してきましたが,要するに,精錬の証拠はなく,残されているものは(古武井は別としても)すべて鍛冶に関する遺物だというのです.蛇足しておくと,どこかで製品として完成された「鉄」をもってきて,熱して鍛え,なにかの鉄製品にしていた跡ならあるということです.

 「なかった」ことを示すのは大変ですが,「あった」ことを示すのもけっこう大変のようですね.
 また,引用文献というやつは,気をつけないと,「そんなことは書いていない」どころか,「全く真逆のことが書いてある」場合があるので,実際に確認してみるのがいいようです.

 さて,話を戻しましょう.
 1)の「砂鉄」が「砂鉄」であるための存在理由に近い「砂状の形態」は事前に処理をすることによって塊状の形にし,2)の不熔性鉱滓の生成は,熔剤の成分を調整することによって実動可能になるといいます.
 ここで,「熔剤」というのは「熔融剤」ともいわれ,熔鉱炉において鉄鉱原料やあるいは燃料としてのコークス中の不純物と化合させて,結果として1)熔融点が低い,2)流動性が高い,3)鉄との比重差が大きい「鉱滓」をつくる物質をいいます.コークスではなくて,木炭を使う場合は,その分の熔剤は不要になるわけです.

 斐三郎の時代は,「熔剤」といえば「石灰石」というのが常識だったそうですが,海外では明治にはいってすぐに「高チタン鉱石」の熔鉱に玄武岩や古煉瓦を使った例があり,何の問題も起こさなかったという記録があります.
 英国人が気づいたことを,斐三郎は気づかないとする法はありません.実験が続けられれば,気づいた可能性があるのは否定できません.
 蛇足しておけば,熔鉱炉のメカニズムがわからず,「熔剤」とはなんであるかを理解するのにしばらくかかりました.ひどい解説書になると「製鉄の原料は,鉄鉱石と石灰石と石炭(コークス)である」と書いてあります.石炭は燃料だから原料ではないのは明らかですが,石灰石の役割はなかなか明示されることはないようです.

 もうひとつ.
 「砂鉄には必ずチタン鉄鉱が含まれている」などと,平気で書いてあります.これは,どうも怪しい.藤原哲夫(1962)は「北海道の砂チタンおよび含チタン砂鉄鉱石」を調査し,これらをTiO2/T.Fe比によって,「砂チタン」,「高含チタン砂鉄」,「低含チタン砂鉄」,「砂鉄」にわけています.
 「磁鉄鉱中に,ほとんどチタン分を含まないもの」を「砂鉄」と呼んでいます.これは道内でも非常に特殊なもので,「中頓別」付近でしか見られません.では,志海苔・古武井をふくむ道南部の“砂鉄”はどうなのでしょう.
 「道南部」の“砂鉄”は「磁鉄鉱を主要構成鉱物とし,その中に固溶体あるいは離溶共生体として,少量のチタン鉄鉱・ウルボスピネル・含チタン赤鉄鉱を含むもの」で「低含チタン砂鉄」として分けられています.TiO2/T.Fe比で0.10〜0.24.オホーツク海沿岸部の“砂鉄”が重量%で40〜50%近くのチタン鉄鉱を含むのに対し,道南部のものはもともと10%以下しか含まれていないのです.

 また,福田(1930)には,十分ではないにしろ,比重選鉱や磁力選鉱を用いてチタン鉄鉱分を下げることは可能だと書いてあります(もちろん,ものによっては,とくに磁力選鉱は効果がないと書いてありますが).他の方法との併用により,結果として,鉱滓中のチタン成分を低下させ,出銑の障害を低下させることは充分可能であり,道南部の「(低含チタン)砂鉄を原料とした高炉製鉄はもともと不可能である」とは言えないはずだと思われます.

 

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