2008年12月25日木曜日

石川貞治・増補

 

 札幌の「I」さんからメールをいただきまして,若干微妙なことになってしまいました.

 私にとって「石川貞治」は,すでに歴史上の人物なので,北海道の地質学史に関係する地質屋である「石川貞治」を知るために「石川貞治の地質学」をさぐって公表することは,私がしなければならないことだと考えていたのですが,方針に若干修正が必要になりました.
 札幌の「I」さんにとっては,「石川貞治」は曾祖父にあたり,あきらかなプライバシーですから,「I」さんの意向を無視して書くわけにはいきません.すでに,訂正が必要なことを何ケ所か指摘されていますが,その元になる資料は「I」さんの所有物ですから,「I」さんが公表したいということでなければ,こちらで勝手に公表するわけにもいきません.

 微妙な判断が必要になりますね.

 したがって,こののちは,「すでに公表されている情報」と「I」さんの許可をえた事項しか書く気はありません.
 「I」さんが「石川貞治の歴史」を書いてくだされば,いいんですけどね.

 さて,そんなことで悩みながら再調査しているときに,富良野市郷土館の杉浦重信さんが「黎明期の千島考古学と石川貞治」について書いていることを思い出したというか,気づいたというか…全くお間抜けですが,ちゃんと調べ尽くしてから「石川貞治」について書くべきでしたね(このブログは「探索記録」であって,論文ではないから,いいんですが…).
 もっとも,杉浦さんは考古学畑の人で,私とは視点が違うはずなので,意識していなかったのも事実です.

 さっそく,連絡を取って,別刷りを送ってもらうことにしました.

 久しぶりに電話でお話ししました.
 学芸員なのに,博物館を引き払って,もっぱら事務職として勤務しているそうです(かわいそうに).市議会の季節なので,超多忙とか(かわいそうに).
 実は,これは日本の学芸職員が抱える切実な問題なのです.お役所の世界では,研究職としては偉くなれないのですね.事務職に変態しないと,まともなお役人とは(あるいはお仲間とは)見なされないのです.

 それはさておき,杉浦さんはかなりレアな資料を収集していますし,さらに実際に石川家にお邪魔して聞き取り調査されたそうです(私のような,お手軽調査ではないということですね(^^;).
 面白い話をいくつか聞かされました.実際にあって,そのときの話を聞くのが一番のようですが,なにせ,杉浦さんは超多忙の人です.

 さて,杉浦さんの論文から,必要なことを拾ってゆきましょう.

 まずは,石川貞治の出身地から.
 「石川貞治・横山壮次郎の地質学(2)」では,「北大百年史」の記述から,「岡山県の出身であることがわかる」と書いてしまったのですが,杉浦論文では「貞治は1864年(元治元)現在の島根県浜田市に旧浜田藩士石川文治の四男として生まれ」たとあります.これはこのブログの「コメント」欄で,札幌の「I」さんからも指摘を受けています.
 その後,事情があり岡山の美作(みまさか)の浜田藩領に移ったということですね.いつ頃かは未詳です.

 1896(明治29)年に拓殖務省に転出してからの足跡が不詳であるとしておきましたが,杉浦論文には,その後の足跡が書かれています.
 拓殖務省は1897(明治30)年9月2日に廃止されます.業務である台湾事務は内務省が引き継ぎましたが,石川は官を辞して実業界に転身します.
 1898(明治31)年(「I」さんの資料では,1897年),「東京に『北海道鉱農商議館』を設立し,北海道の鉱業・農業に関する事業のコンサルタントを行」ったとあります.
 設立地や名称は,別途,なにかで確認する必要があるかもしれません.

 1904(明治37)年には,「株式会社インターナショナルオイルカンパニーの本道石油事業に着手」したとあります.これは「I」さんの資料には「1903(明治36)年,秋(?)」とあります.また「インターナショナルオイルカンパニーの札幌総顧問」になったとあり,ニュアンスが異なります.
 「インターナショナル・オイル・カンパニー」とは,ロックフェラー麾下のスタンダード・オイルが,1900(明治33)年に横浜に設立した石油会社です.日本国内で,かなり大規模に運営しており,1906(明治39)年には勇払郡厚真町軽舞付近で石油採掘していた記録があるそうです(まだまだ調べる必要がありそうですが…).ところが,同社は経営不振に陥り,1908(明治41)年には,全資産を「日本石油」に売却,日本から撤退します.

 このときに石川は退社したようで,同年,「幌向炭坑合資会社(詳細不詳)」を設立しました.「I」さんの資料では「幌向炭鉱合資会社」と「永豊鉱山(石灰石鉱山:「寿都」図幅には記載なし;詳細不詳)」を設立したとなっています.
 「幌向炭鉱合資会社」は1916(大正5)年まで営業していましたが,その間にも(1912(明治45)年ころ:「I」さんの資料),石川は海軍省の内命を受けて,北樺太の油田調査や南樺太の油田掘削を行ない,また満洲・朝鮮・北支の鉱産地の調査も行ったそうです.
 1916(大正5)年には手稲付近の鉱業権を買収,これを「手稲鉱山」と命名して開発に乗り出します(「I」さん資料).これも詳細は不明(「銭函」図幅には経緯の記載なし)ですが,滝ノ沢・支流の黄金沢付近の鉱床の開発に一時期成功したようです.しかし,のちに資金難となり閉山(1928(昭和3)年;「I」さん資料)に追い込まれたようです.

 ほかにも,「大正7年以降,『北海道鉄道株式会社』の設立発起人となり,『日本採炭窒素株式会社』の取締役に就任,あるいは『北海道永豊石灰山』の採掘,さらには新日本社・拓殖産業会館・技労資協栄会などの発起,東北・北海道・樺太の航路開発の企画に奔走した」とあります.
 「北海道鉄道株式会社」は,北海道大百科事典によれば,1896(明治29)年から「函樽鉄道会社」として免許申請が提出されていたもので,1900(明治33)年11月に社名を「北海道鉄道会社」と改称して設立されたとなっています.したがって「大正7年以降」に設立発起人となることは不可能なので,なにか間違いが忍び込んでいるようです.
 「日本採炭窒素株式会社」は該当する会社が不明.
 「北海道永豊石灰山」は,前述の「永豊鉱山」のことだと思われますが,これも「I」さんの資料では,1908(明治41)年に設立となっています.
 「新日本社」・「拓殖産業会館」・「技労資協栄会」は,いずれも実態が不詳.また,「東北・北海道・樺太の航路開発」についても,あまりにも漠然としていて追跡調査が不可能でした.
 
 確認できないことや,わからないことが増えてしまいましたが,ヒントはたくさん転がっているようです.将来,資料が見つかることを期待しましょう.

 さて,杉浦論文によれば,石川貞治は1932(昭和7)年3月11日,内中耳炎を煩い,東京鉄道病院(現:JR東京総合病院)で逝去しました.享年69歳でした.

 杉浦論文では,「結語」に以下のように書かれています.
 「北大の『札幌同窓会第55回報告』の文末に,『誠に時流に一歩先だったアンビシアスな一生であったが,酬いられることは豊かでなかった』と記されている.このことが何を意味するかは,略歴程度の資料しか残されていない現在では推測の域を出ないが,その非凡な才気を発揮できない不運な境遇に置かれたことを評しているのであろうか.」

 ほんのわずかでも,失われた歴史の発掘がすすめば幸いです.

 
 

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