2008年11月26日水曜日

石川貞治・横山壮次郎の地質学(2)

(簡略版・札幌農学校の地質学)

石川貞治

●石川貞治の履歴
 石川貞治は1892(明治25)年1月に「地質学」の嘱託講師として札幌農学校に雇われます.本業は北海道庁の技手でした.同年2月には助教授になりますが,本職はやはり「北海道庁技手」でした.そして,1896(明治39)年6月まで助教授として在任していました(北大百年史・通説,第3章,付表一,二).
 同,付表一には,石川は1864.12.20生まれであることが示されています.つまり,元治元年十一月二十二日生まれということになります.
 もう一つ,「北大百年史・史料」の「明治25年」には,その年までの卒業生のリストが載せられており,ここから,石川は「明治21年7月」の卒業で,「岡山県」の出身であることがわかります.
 つまり,以下になります.
1864(元治元)年12月20日:岡山県に生まれる
1888(明治21)年7月:札幌農学校卒業
1892(明治25)年1月:札幌農学校の嘱託教師(地質学)となる
1892(明治25)年2月:札幌農学校の兼任助教授となる
1896(明治39)年6月:札幌農学校の兼任助教授を離任する

●石川貞治の学歴
 明確にわかることは上記のことぐらいで,あとはいくつかの仮定を積み重ねるしかありません.つまり,石川は健康で,非常に優秀な生徒だったと仮定します.そうすると,

  1884(M.17).09~1885(M.18).06.:第1年級
  1885(M.18).09~1886(M.19).06.:第2年級
  1886(M.19).09~1887(M.20).06.:第3年級
  1887(M.20).09~1888(M.21).06.:第4年級
 だったことになります.

 1884(明治17)年から1886(明治19)年にかけて,毎年のように校則の手直しがあったので,各学年で受けるべき授業名が記録されています.それによれば,
 1884(明治17)年:第三年級・後期「鉱物学及地質学(3/週)」
          第四年級・前期「地質学(3/週)」
 1885(明治18)年:第三年級・後期「地質学及金石学(5/週)」
 1886(明治19)年:第三年級・後期「地質学及金石学(5/週)」
 1887(明治20)年:第三年級・後期「地質学(5/週)」
 と,なりますが,これは「校則」上のことで,実際に行われた時間割が示されていた訳ではないので注意が必要です.以上の仮定を組み合わせると,石川は1886(明治19)年:第三年級・後期「地質学及金石学(5/週)」の授業を受けたことになります.
 このときの「地質学」類の授業を受け持っていたのは,ストックブリッジ(Horace E. Stockbridge)でした.「北大百年史・通説」表2-2によれば,ストックブリッジは米国籍(1857.5.19.生まれ)で雇用期間は1885.5.17~89.1.31,専門は「化学」と「地質学」になっています.
 学問が専門分化した現代ではストックブリッジの専門は不思議に思えますが,この時代では当たり前だったのでしょうか.いえいえ違います.もっと深いわけがあったのです.我が師,湊正雄先生が,この「北大百年史 通説」中の「北大百年の諸問題」で,「北大における地質学と北海道」として論じています.農学校の地質学は「土壌生成のメカニズム」を理解するために設けられていたのです.ストックブリッジの専門といえるのは実は化学であり,したがって,この「地質学」のメイン・パートは「岩石の風化から始まる土壌形成」だったと思われます.しかし,ストックブリッジの「博物学的知識」は相当なものだったようで,着任早々の夏休みに四年生を連れて「地質実習旅行」に出かけています.行く先はポロナイまで.幌内付近の地質現象の観察のみならず,多数の動植物の標本も収集したようです.ストックブリッジの先代にあたるペンハロー(David P. Penhallow)も同様の学問を修めた人でした.
 これはマサチューセッツ農科大学出身者の共通の性格のようで,極端な専門家を目指しているというよりは,広く一般教養を身につけているのを理想としているようです.
 思い出してください.
 遠く日本の,そのまた辺境の蝦夷地までやってきて札幌農学校の精神的基礎を作ったクラーク博士(Dr. William S. Clark)は現職のマサチューセッツ農科大学の学長でした.クラーク博士はドイツのゲッチンゲン大学で地質学を学び,隕石の研究で学位を取ったとされています.その上で植物学を志し,そして農業の専門家でもありました.
 なんで,こんなに強調するかはあとでわかります.

 蛇足しておきます.
 石川貞治は札幌農学校本科に入る前は,予科(予備科と表現される場合もある)で学んだ可能性があります.学生の数が少ない場合は外部から募集していますが,原則予科から本科に入るのが普通とされているからです.ところが,予科の学生のレベルが低く,本科に進級できる学生は非常に少なかったといわれています.たとえば,1881(明治14)年までは修業年限が三年だったのに,あまりに進学率が悪いため修業年限が四年に延長されています.
 こういう事実を考慮すると,石川が予科出身だったことは考えにくいのですが….え?,何にこだわっているのかって,ですか?.
 札幌農学校予科では,当初は「読み書き算盤」的な基礎的教科ばかりだったのですが,明治14年から予科第一級で,後期に「地文学」が授業科目として取り入れられました(後期ですから,実際に行われたとすれば,明治15年の1月からになります).「地文学」とは聞きなれない学問ですが,現代の高校地学に博物学的植物学・動物学を含めたものと考えるといいでしょうか.そうすると,基礎レベルの博物学的地質学は,ここで学んでいることになります.
 悲しいかな,実際に行われた授業時間割や担当教官の名は示されていないので,最悪の場合は本当に授業があったのかなんてことまで,疑おうと思えば疑えますが,行われたという前提で進めることにしましょう.そうすると,石川が受けたであろう1884(明治17)年の入学試験では,当然「地文学≒博物学」的知識が要求されていたと考えられます.したがって,石川にはすでに,相当の素養があったと考えられるわけです.

●その後
 石川貞治は1888(明治21)年6月に札幌農学校農学科を卒業したことはわかりましたが,また悲しいかな,この次期の卒業生そのものの情報は「北大百年史」には示されていず,卒業後どうなったかはわかりません.
 これで終わり? いいえ,そうではありません.
 翌1889(明治22)年,現在でも発刊され続けている「地学雑誌」が創刊され,その第一集(現代的には第一巻のこと)に石川が華々しくデビューします.そのときの肩書きは「北海道庁地質調査員」でした.

 さて,石川がどのような「地質学」を行っていたかをこれから紹介してゆきたいと思いますが,その前にもう一人の人物をさぐってみます.その人は石川の一年後輩にあたる横山壮次郎です.

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