2008年10月31日金曜日

地質測量生徒の地質学(その4)

====1875(明治8)年====

 1875(明治8)年4月17日,「北海道山越内石油地方略測報文」提出.
 4月26日,「北海道泉沢石油地方略測報文」提出.
 4月29日,「鷲ノ木石油地方略測報文」提出.
 5月4日,「地質測量報文竝殆ど成功せる製図の概略」提出.

 5/4付け「地質測量報文竝殆ど成功せる製図の概略」には,進行中の調査の概略およびその報告書について述べるとともに,補助手たちの技量についての評価が書かれています.
 それは「実に日本の補助手は,亞細亞洲中に於て,始て地質学を現地に学ぶの徒なり.然るに,其業を為すや,既に如此の成績あり.数年を出ずして,業成り,外邦人の助けなきも,能く満足なる地質測量を為すに至るヿ必せり.」であり,そしてそれは事実でした.

・1875(明治8)年5月6日,「測量生徒の奉職義務年限に北地調査期間算入の件」提出

 開拓使仮学校の生徒には,卒業後は北海道で開拓に従事することが義務づけられていました.官費生徒は10年,私費生徒は5年です.ライマンは地質測量生徒はすでに北海道のために働いているのだから,その期間は奉職義務の期間に算入すべきだと主張しているのです.もっともな話ですが,これには裏があります.詳しくは副見恭子(1997)「ライマン雑記(13)」を参照ください.ライマンと開拓使の関係はどんどん悪化しつつあったのです.

 また,同年5月10には,モンロー名で「北海道金田地方報文」が提出されました.これには,利別・久遠・江差・松前・武佐・十勝の砂金鉱床についての報告があり,末尾にはこれまでの調査に従事したメンバーの名前を記して賞讃しています.

  6月15日,ライマンは10名の補助手(稲垣・賀田・桑田・島田・杉浦・西山・坂・前田・山際・三沢)を率いて東京を発しました.途中、塩釜付近の地質調査(概査)をおこなったといわれています.6月20日に函館に着き,22日には補助手の一隊(稲垣・賀田・桑田・島田・西山・坂・前田・山際:八名)を,札幌に先行させます.
 翌,6月23日、ほかの一隊(杉浦・三沢・西村会計官・足立写字生)を従えて出発.茅沼経由で,7月5日に札幌着.

 75調査隊には,ライマンが右腕と頼むコーディネーター・秋山美丸の姿がありません.秋山は前年の“開拓峠”越えで,それこそ寝食を共にした部下であり,友でした.地質測量生徒でもないのに「日本蝦夷地質要略之図」に「地質補助」として秋山の名が山内の次に記されていることからも,ライマンの彼への信頼度がわかります.その秋山が,1875年初冬,突然ライマンの担当をはずされ,物産局へ転任させられます.その他いろいろ奇妙な出来事が頻発し,ライマンは3月27日,開拓使に辞表を提出しています.公式に知られているライマン調査隊の成果の背後には,うごめく何かがあったようです.
 また,学生たちのリーダー的存在であった山内徳三郎も1875(明治8)年3月,開拓使に辞表を提出しています.理由は持病の眼疾.4月には辞表を撤回したようですが,翌5月には開拓使を免職になっています.実際に何があったのかは判りませんが,結果は良い方へ向かいます.
 山内は7月に内務省勧業寮に奉職.そこには大鳥圭介がいました.山内は,9月には大鳥圭介とともに濃越地方の石油調査に.眼病で職を辞したにしては,大変な活躍です.そして,翌1876(明治9)年2月,開拓使内で四面楚歌状態にあったライマンは内務省勧業寮と二年契約を交わし,本州での石油調査が始まります.山内が大鳥にライマンのおかれた立場を話したに違いありません.ライマンは救出され,結局,弟子たちも開拓使から引き抜くことになります.そして,1877(明治10)年1月には大鳥とともに工部省へ移ることになります.
 秋山美丸はどうなったか.詳しくは,副見恭子(1997)「ライマン雑記(13)」を参照ください.

 話を戻します.
 75調査隊には,新しい二人のメンバーの名前が見えます.
 一人,西山会計官は,秋山の代わりでしょうけど,この人については全く判りません.もう一人,「足立写字生」とされている人物,彼については今津健治(1979)が記しています.「安達仁造」,「出雲国母里藩士族.嘉永六年十二月,母里に生まれる.父は松江藩医.明治三〜四年のころ東京に出て,学僕となり,洋行を企てたがならず.開拓使外人教師館のボーイとなる.明治六年ライマンの北海道地質調査旅行に随行.」
 つまり,安達はライマンの最初の調査旅行に同行していたことになります.副見(1999)によれば,1873(明治6)年2月付けの,ライマンからライマンの父への手紙に安達の名前がでているそうです.仮学校生徒になれた者,地質測量生徒に選ばれた者などは非常な幸運に恵まれており,安達のように学問を志すも,その機会に恵まれなかった少年たちは一体どのくらいいたのでしょう.
 副見によれば,安達が最初に書記として調査旅行に参加したのは第三回目となっています.今津の記載とは矛盾しますが,明治6年の調査行には,ライマンの私的な使用人・世話係として随行し,明治8年には開拓使の雇い人として随行したのだとすれば,矛盾はないことになります.
 以後,ライマンの全国油田調査に随行し,7年間ライマンの家に住み込んでいたそうです.副見は,安達は「師弟関係というより,主従関係であったのではないかと思う」としています.


 すでに,7月.ライマン調査隊の足取りは重かったようです.
 1875(明治8)年7月17日,「幕別炭山地質測量報文」提出.
 7月20日,平岸村の沼鉄鉱,巡検.
 7月23日,補助手の一隊(賀田・桑田・西山・前田・三沢)は美唄-空知間の測量へ.昨年の続きの測量でした.彼等は,奈井江地域まで足を伸ばし,各地において良炭層を発見しました.巨大な石狩炭田の実態が,初めて明らかにされたのでした.

 一方,ライマンは別の一隊(稲垣・島田・杉浦・坂・山際)を率いて,幌内鉄道の測量に.路線選択のため幌内太-幌内間および美唄太-幌内間の地形を踏査の上,8月16日から幌内より鉄道予定路の測量を開始.“ライマン部隊”は,なぜか地質調査もせずに,路線測量のみをおこなっています.鉄道路線測量だけなら,測量の専門家がいるはずですが….

 9月19日,幌内太の終点に達する.
 9月20日,石狩に下り,オヤフル・ウソナイ,バンナグロの鉄鉱を見て,札幌に帰る.
 函館をでて,帰京したのは10月4日でした.

(その5)につづく

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