2007年4月30日月曜日

熔岩(安山岩質熔岩)


 日本では最もありふれた岩石.

 「安山」は南米の「アンデス山」の意味.太平洋を取り巻く火山帯は安山岩質の岩石が多いので,安山岩線と呼ばれています.
 約三百〜二百万年前に,北海道のあちこちで同様の熔岩を流す火山活動がありました.これらをまとめて「平坦熔岩」といいます.
 表面に見える穴は,熔岩が地表に吹き出したために,圧力が低下しガスが発生.気泡ができたもの.気泡が方向をそろえて,並んでいるのは,溶岩の流れの方向に沿って延びたためです.
 「鉄平石」という石は,この溶岩の流れた方向に板状に割れやすくなった石のこと.

 この石は,北海道中に(日本中に)普通にある岩石なのに,一般のひとにチョット判りにくいものになっています.
 それは第一に,もともと「アンデス山脈中のある地域に産する岩石」につけられた固有名詞なのに,同様の岩石が太平洋を取り巻く地域に産出するので,それにも普遍的に使ってしまい普通名詞化してしまったことにあります.昔は,日本に産出するものには「富士岩」の名前も使われていたことがあります.
 第二に,もともと「アンデス山脈中のある地域に産する岩石」につけられた固有名詞,もしくは「環太平洋によく見られるある種の火山岩」につけられた普通名詞なのに,岩石の研究が進むにつれて,岩石の化学成分をあらわす言葉としても使われるようになったこと.このことが判っていないと,一般のひとには「安山岩質玄武岩」とか「安山岩質流紋岩」とかいわれても,理解ができませんね.

 それだったら,「これは安山岩です」などといわずに,「これは熔岩です」と説明すればいいものを,知識が売り物の学者はどうしても「安山岩です」といいたくなる.ところが,「ホントに安山岩ですか?」と訊かれたら,知識がありすぎる学者は逆に困るのだ.「えーと,薄片をつくって顕微鏡で見てみなければ…」とか,「化学分析してみなければ…」になってしまう.でもそこまでしなければ,岩石に名前がつかないのでは「どーか」と思う.みれば,やっぱりこれは安山岩質の熔岩なのだ(玄武岩に近いかも知れないけれど(^^;).

 もひとつ.
 実は「熔岩」であるかどうかも条件が良くないと判らない.地表に出てきたために発生したガスの跡である気泡とか,空気や水に触れて急冷したためにできたガラス(急冷周縁相という)であるとか,熔けて流れた構造がなどが見えないとね.それでも,不思議なもんで,見れば何となく判ってしまうのですが.

 ももひとつ.
 写真の岩石はT字路の突き当たり側にある民家に,突き当たりをふさぐ様に置いてあります.
 これは「古典風水」の考え方から来ています.
 風水では「気」の流れというものを考え,道路や川あるいは山脈はこの「気の流れ道」ととらえています.T字路の突き当たりでは,この気の流れの影響がもろに「突き当たりの民家」に影響をあたえるととらえるのです.
 この気の流れは「良い」とか「悪い」とかに関係なく,ただ「強い」ものですから,「平穏な生活にはむかない」と考えるのです.「古典風水」は誰でも結論が同じになるので,ある種の“科学”でした.そのころは本来,風水ではこういうところに家を建ててはいけないので「引越なさい」ということになります.
 王侯貴族相手の「風水学」だった頃はそれでも良かったのですが,世の中が変わってそれほどお金持ちではないひとも相手にしなければならない「風水師」はコストのかからない解決法を考え出さなければならなくなりました.
 それが,こういう風に丈夫な岩石をおいて,気の流れをせき止める方法です.
 いったんこういうことを考え出すと,歯止めが効かなくなって,金運を良くするには「金色(のもの)」だとか,愛情運を良くするには「ピンクもしくは赤(のもの)」だとか,連想ゲームみたいになっていきます.それが今生き延びている「メタ風水師」です.

 おっと,「ご近所の自然」と「科学史」が合体してしまった(^^;

 「古典風水」について付け加えれば,現代的に説明すれば,T字路の突き当たりにある家には,たとえば「暴走トラック」が突っ込んだりすることを考えれば理解できると思います.昔でいえば,コントロールの利かなくなった牛車が突っ込んだりというとこですか.結構頻繁に起こっていたと思いますね.
 T字路の場合と同様に,川がカーブしている場合,その曲がり初めの突き当たりあたりの地域も「風水」では良くないとされています.これも,普通に川が流れている場合はいいのですが,まれに起こる洪水時には,突き当たりの地域は水流により堤防が壊れ,もろに洪水の被害を受けることになります.「だから,そういうところは避けなさい」というのが「風水」だったわけです.

2007年4月29日日曜日

アカゲラの啄痕


注:「啄痕」は適当な言葉が見つからなかったので,私が造語しました.

 ここは住宅街の公園なんですが,以前から生えていた大きな木がどういう理由でか,ある高さで皆伐られてしまいました.伐り跡が傷んでしまって枯れはじめ,そこについた虫を狙ってアカゲラが木をつついています.この穴がもっと大きくなると,小鳥たちが巣穴として利用するようになるのでしょう.
 実はこのそばに,もっと立派な穴があいた木があり,時々小鳥が出入りしていたのですが,冬の間に根元から伐られてしまいました.この公園の管理には,疑問な点が多いのですが,公園課の連中と話すると,心が冷たくなってゆくのがわかるので,あまりいいたくありません.
 人間の都合で,生えていた木が切られたりすると,そこにいた動物たちは大変な迷惑をこうむるのですが,それに気がつかない人が管理しているという矛盾.

 それにもかかわらず,切られた木を利用して,逞しく生きています.
 ガンバレよ!


 ついでに.
 アカゲラの学名は Dendrocopos major (Linnaeus, 1758) です.以前は Picoides major Linnaeus, 1758 としている図鑑が多かったようですが,訂正が進んでいるようです.日本の図鑑は学名を粗略に扱いますので,そのあたりを説明しているものは見つかりません.シノニムぐらい,どこかのサイトに書いてないかと探しましたが,学名モドキしかないですな.

 わずかな情報をたよりに,いきさつを検討してみます(怖い物知らずで…どうも(^^;).

 Picoides Lacepede, 1799 はもともと,北米にいたキツツキ類につけた属名のようです.日本にいたキツツキの仲間は安易にここに放り込まれ,かなり雑多なものが混ざっていたようす.そこで,アカゲラは Picoides major Linnaeus, 1758 と分類されました.ところが, Picoides の再検討が進んで,アカゲラは Dendrocopos major (Linnaeus, 1758) と判断されることが多くなったようです.1976年にでた図鑑にはもう Dendrocopos major になっているものがありますから,最近になっても,まだ Picoides major を使ってる図鑑は学名の検討なんかしてないんだろうな.それとも, Picoides が有効名だという根拠があるのだろうか.だったら,そのあたりを書いといて欲しいですね.

 さて, Picoides は,Picus (ヤマゲラ属)に似ているという意味で-oidesの語尾がついたもの.picus は「ピークス」と読み,ラテン語でキツツキ・ヤマゲラのたぐいを指していました.サンスクリット語では pikas は「インドのカッコー」意味しているそうですが,あまり共通点があるようには思えませんね.
 もひとつの Dendrocopos は,dendrosとcoposの合成語.dendrosはもともとギリシャ語がラテン語化したもので「木」を意味します.copos は手持ちのラテン語辞典には載っていません.ギリシャ語の「コポス」はオックスフォード・ギリシャ語辞典には pains, trouble; hard work とあまりいい意味ではでていませんね.Brown (1954, 1956) Composition of scientific words にも weariness, fatigue とでています.どうも,この名前を付けた人は「木をつついて弱めるもの」の意味をもたせたようです.ちなみに,ギリシャ語の「コプトー」(ラテン語化すると kopto もしくは copto )には「打つ,小さく切る」の意味があります.これと勘違いしたのかも知れません.
 Dendrocoptos にしてくれれば判りやすかったんですがね.もしかしたら,この名前は別の生物にすでに使われていて,わざとこういう綴りにしたのかも知れませんが.

 さて,さて,種名の方の major は英語のメジャーの語源(というよりはそのままですが)のラテン語で「マイヨル」とよみ,意味は「より大きい」.コアカゲラが Dendrocopos minor (Linnaeus, 1758) ですから,学名と和名が素晴らしく調和しています.
 ちなみに,minor は「ミノル」とよみ,意味は「より小さい」.


 さて,さて,さて,化石のキツツキ類は非常に数が少なく,その進化の様子はほとんどわかっていないようです.
 それでも,キツツキ科と思われる化石が北米の中期中新世の地層から産出しています.その後も鮮新世の北米からキツツキ科の化石がでています.もしかしたら,キツツキは北米で進化したのかも知れませんね.

2007年4月19日木曜日

間宮林蔵の資料(2)

 4月6日付,「間宮林蔵の資料」で,「現在入手可能な林蔵についての資料は,洞富雄(1950)『間宮林蔵』(人物叢書新装版;吉川弘文館)のみ」と書いてしまいましたが,間違いでした.
 赤羽榮一(1984)「未踏世界の探検◎間宮林蔵」(清水新書036)というのが,市販されています.これは,中表紙裏に「本書は『人と歴史』シリーズの『間宮林蔵』として,昭和四九年に刊行したものです」と,あります.多分これは洞富雄(1950)『間宮林蔵』に,赤羽栄一「間宮林蔵〔東方地理学の建設者〕」としてリストアップ,かつ赤羽栄一「間宮林蔵ー北方地理学の建設者ー」(清水書院)として「新装版重刷付記」で引用されているもののことだと思われます(それにしても,なんでこんなに副題が違うのだろう).

 昭和四十九年刊なら,もう市販されてないだろうという予想を裏切って,復刻されていたものですね.読めばますます,洞富雄(1950)『間宮林蔵』(とくに付記を読まずに本文だけを)読んだだけでは拙いと思わされます.
 かなりの激論があったようで,これらを理解するには学会誌に書かれたものも読む必要があるようです.議論を理解したいわけじゃあなくて,林蔵の行動・能力・業績を理解したいだけなので深入りしたくありません.
 でも,だれか専門家に整理してもらわないと,林蔵の生涯は実は疑問符だらけのままということになりそうですね.

 もう一つ出てきた疑問が,ほかの著者と解釈が異なっている部分は強調されてますが,共通している(したがって,史実と合意されている)部分はいったい誰が最初に提案したものか,さっぱりわからないことです.
 歴史学というのは先達の業績に無頓着なのか知らん.

2007年4月18日水曜日

最上徳内記念館の皆川さん

 3月21日付記事で,最上徳内記念館から返事がないという事を書きましたが,忘れた頃に返事がありました(^^;.
 でも残念ながら,記念館では最上徳内の文献・資料等は販売していないということでした.「うーむ,残念」と思いながら,返事を下さった事務補助員さんのサイン代わりの印を見てピンとくるものがありました.
「皆川」さんとあります.「もしや」.

 同じく,3月21日付の記事の中に皆川新作という人が「最上徳内」という本を書いている,しかも「重要な情報が書かれている」と書きました.
 で,早速お手紙を書いたら,今日返事が来ました.
 やはり,皆川新作の親戚の方でした.丁寧に「家系図」の写しまで送ってくださいました.

 ものすごく不思議な気がしました.

 私のような北海道人は,三代さかのぼれば,たいてい“馬の骨”状態ですから,一族が何代にもわたって「最上徳内」に関わっているなんて...「すごい」としかいいようがありませんね.

2007年4月9日月曜日

鉱床学のお勉強から

 「蝦夷地質学」中ではどうしても,鉱山・鉱床の話が出てくるのに,私の知識はおぼつかない.(^^;
 それで,鉱床学のおさらいをしようと思って,教科書を探しましたが,すでに日本の鉱床学は滅びてるらしく,適当なものがみつかりません.そういえば,番場さんが教科書を出してたなと思い出し,Amazonで調べたら,もう絶版扱い.

 ようやく古書店でみつけだし,送ってもらったら,旧版でした.ま.いいか.(^^;

 上記で,番場教授のことを「番場さん」と書きましたが,別にお友達ではありません.教授と学生(専攻は違ってましたが)の関係でした.当時の北大地鉱教室では,先生も「さん」付けでよぶ習慣があり,それが癖になっています.教室の運営には学生や大学院の意見も吸い上げられ,意見を述べることは自由でした.今では不思議に思えますが,教室主任は選挙でえらばれ,学生も大学院生も教室の世話をしている事務職員・掃除のおばさんまで一票を持っていました.

 教室構成員全員が善かれ悪かれ選択の自由を持っていたというわけです.

 太平洋戦争敗戦直後,北大で「イールズ事件」というのが起きまして(事件の説明は省きますが),学生を中心として反対運動が起きました.確か「北大ん年史」とかいうのに行動する学生の写真が載ってるはずですが,その真ん中にいるのが,番場さんだという話を聞きました.

 こういう人達が北大の民主主義を身体を張って守ってきたんですね.

 私が大学院修士課程の頃,教室主任の選挙制度を廃止しようという動きが起きまして,連日議論がなされたのですが,当時教授になっていた番場さんのほか,民主派と考えられていたほかの教授たち(すでに少数派になっていましたが)も,勢いに逆らえず,まともに意見を述べることもできず,結局選挙制度は廃止になったのを覚えています.

 「麒麟も老いては駄馬にも等しい」という言葉を覚えたのはこの時ですね.

 あの頃から,徐々に学生は大学の構成員ではなく,大学を通過するだけの人になっていったんじゃあないかと思っています.(別の大学ですが)非常勤で時々学生に教えにいってますが,大学に愛着を持たない学生のなんと多いことか.でも,上記歴史を見ている私は,学生がなぜそうなのか,理解できると思っています.

 数年前に,番場さんは亡くなりました.

 北大理学部同窓会誌46(2004)に,番場さんのお弟子さんが追悼文を書いています.
 私が在学中にいた教授連の中では結構好きな人だったんですが,訃報を聞いた時にはすでに葬儀が終わってました.最期までカッコいい生き方を貫いたそうです.確かに.
 さて,読まさせていただくか.

 これも,一つの「地質学史」.

2007年4月6日金曜日

間宮林蔵の資料

 現在入手可能な林蔵についての資料は,洞富雄(1950)「間宮林蔵」(人物叢書新装版;吉川弘文館)のみ.
 この本は,「新装版」化のほか,「重刷付記」,「第二刷付記」,「第三刷付記」などが付け加えられていますが,改訂履歴がよくわからないので注意が必要.また,第一版は昭和二十五年発行になっているが,クレジットは"Tomio Hora 1960"になっています.
 本文は多分初版のままだと思われますが,上記「付記」は付記というよりはまったくの「訂正」があるようなので本文を読んだだけでは,非常にマズイことになりかねない.全面書き換えが必要な本だと思われますが,著者は明治三十九年生まれなので,不可能でしょう.しかし,書店ではこの本しか入手できないというのが,日本の現状.

 この不明な改訂がおこなわれている間に,間宮林蔵述・村上貞助編「東韃地方紀行他(洞富雄・谷澤尚一,1988編注)」(平凡社東洋文庫484)が出版されています.
 ここに至って初めて,それまで林蔵の著作だとされていた「北夷分界余話」・「東韃地方紀行」・「窮髪紀譚」は別人の著作であることが明らかになりました.つまり,林蔵には著作が存在しないことになります.歴史はまだまだわからないことの方が多いのでしょう.また,それまでは,「東韃地方紀行」は独立した著作だと考えられていたのですが,「北夷分界余話」つまり樺太編を前編とした後編であり,二つで一つの著作だということです.
 なお,この東洋文庫版は品切れになってから久しく,古書店でしか入手できません.平凡社ではオンデマンド版で東洋文庫の復活を目指しているようですが,値段が高めで注文しても入手まで一月ほどかかるようです.これが日本の現状.(^^;

 ほかに,大谷恒彦(1981現代語訳)「東韃紀行」(教育社新書,原本現代語訳104)は,比較的キレイな状態のものが,古書店では入手可能.
 大谷さんの著作には,ほかに(1982)「間宮林蔵の再発見」(ふるさと文庫,筑波書林)もあり,こちらは現在でも市販されていて入手可能です.内容は林蔵の地元で掘り起こしたエピソード集なので,歴史好きには面白いですが,間宮林蔵の全体像がわかるわけではありません.

 あと,間宮林蔵をあつかった歴史小説はたくさんあります.
 あまりお勧めはありません.理由の多くは,表向きは偉大な探検の記録といいながら,背後にちっぽけなナショナリズムを感じるからです.ま,林蔵が注目されること自体がそういうことなんですが...(^^;
 あと,最近の歴史小説は上記したような資料にある年表をそのままなぞって「作品」だというようなお気楽な作家が多いのはなぜでしょうかね.あ.これは,とくに林蔵についてということではなく,最近の歴史小説一般についてのことです.
 ということで,やはり吉村昭の「間宮林蔵」が定番でしょうか.文庫版で買えますしね.

2007年4月3日火曜日

高畑利宜の復命地図


 蝦夷地質学の六(3):ライマン・ルートの所で,「『高畠氏の図』については,存在もよくわからない.」と書いてしまったが,別件で「旭川市史 第一巻」を見直していたら,ありました.
 この原図は,「今も滝川町の高畑家にあり,その模写したものは旭川市立郷土博物館に蔵している」と,あります.その問題の部分(層雲峡の滝の件)だけ添付します.