2007年8月16日木曜日

「アイヌ語地名と伝説の岩」

 由良勇さんから「アイヌ語地名と伝説の岩」が届きました.
 お盆前に届いたのですが,支払いを済ますまでは私のものではないと考えてますので,保留にしてました.

 私が一番に興味があったのは,もちろん,「付録」の「忠別太大番屋」についてなんですが,残念ながら,書かれていることは「旭川市史」の記述とほとんど変わりありませんでした.もっとも,永年郷土史をやられている由良さんがこうまとめているのだから,現状では「これが最大限知られていること」ということで,これで区切りがつけられます.

 もう一つの付録である「旭川市内石狩川本支流変遷図(六葉)」をみて,放り出してある作業を思い出してしまいました.明治中頃からいくつかの市街図が残されていて,平成14年というから西暦2002年に,財団法人日本地図センターから「地図で見る旭川の変遷」として,まとめて発行されているんですが,それから旭川市内を流れる川を抽出して,流路変更を図化したいと考えて,途中までやって放り出していたものです.(どうでもいいですが,発行年を元号表記だけにするのはやめてもらいたいですね.最低でも西暦と並記してもらわないといちいち換算しなければならない.自衛隊の海外派遣は「グローバリズム」なのに,こういうところは「ナショナリズム」?と勘ぐってしまう)
 娘が小学校にいるうちに「郷土史資料」として,使えるように...と,思い...いつの間にか,娘は中学生になってしまいました.(^^;
 いってることが,よくわからない?
 たぶんそうだろうと思います.上川盆地,特に旭川市街地を流れる河川は,たぶん他に例がないほど流路が変えられています.市街中心部にある「常磐公園」を,昔,中島公園とも呼んでいましたが,子どものころは「なんで島でもないのに中島?」と思ったこともあります.つまり,昔は中島だったんですが,今は別に川に挟まれているわけではないんです.つい最近でも,「永山新川」というのができまして,春秋に渡り鳥が羽を休めにくるので有名になりつつありますが,これらはじつは洪水対策の結果なんだそうです.
 明治になってから,意図的に軍都としてつくられた旭川は,本州の旧い都市とちがい,洪水対策の歴史的蓄積がないので,非常に洪水に弱い所があります.だから,市街地ができた後からでも大規模な流路変更がおこなわれていて,時代のちがう地図を並べると,驚くほど「河川」の形が変わっているのです.そして,歴史的蓄積がないぶん,たぶん,本州と同じような程度のハザードマップを作っているだけでは,いつか足をすくわれそうな気がします.

 さて,本文ですが,もちろん題の通り,神居古潭周辺のアイヌ語地名と,点在する岩にちなむアイヌの伝説を紹介したものです.掲載された旧い写真を見ていると,子どものころ,春や秋の行楽シーズンに町内会で神居古潭の岩の上でジンギスカンなどをやったことを思い出してしまいました.この本を持って見物に行こうかなあと,考えてしまいました.

 もうひとつ,紹介しておかなければならないことがあります.
 この本はあくまで郷土史の範疇にはいるものなんですが,本文に入ってすぐに,「神居古潭の地質・地形と上川盆地形成経過の概要」として,神居古潭帯を中心とした,北海道の地質構造発達史が紹介されていることです.地質構造発達史も,郷土史の一つとして取り上げられている.ありがたいことです.
 いくつか間違いや誤解がありますが,これは地質屋が普及下手なことの反映なんだろうと思います.何とかしたいものです.

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