2007年6月21日木曜日

釜次郎 北へ?

古書店から二冊の本を入手しました.
阿部たつを(1973)「函館郷土随筆」(北海道出版企画センター)と,
阿部たつを(1965MS)「函館炉辺閑話」(阿部たつを,自費出版)です.

 きっかけは,「大野土佐日記」のことが書かれているという情報からです.この話も興味深く読ませていただきましたが,別に記録しておかなければならない事項がみつかりました.

 地団研・北海道支部HPで公開中の「蝦夷地質学の伍」,「榎本武揚(4)若き日(箱館留学?)」のところで,釜次郎がつくったとされる漢詩(の和訳)を引用し,井黒弥太郎氏の考察を紹介しました.井黒氏の著作は「榎本武揚伝」(1968)と「榎本武揚」(1975)であり,二冊ともに同様のことが記されています.この漢詩は榎本武揚の二男である春之助翁から井黒氏に示されたものであるとの記述でした.
 ところが,阿部たつを氏によると,神山茂さんから教えられたとして,雑誌「旧幕府」(第四号)から問題の詩を引用しています.阿部氏は「柳川熊吉と榎本武揚」の関係,「榎本武揚と堀織部正」の関係を論じているのですが,この記録は前述のように1965MS(?)と1973なので,詩の紹介は明らかに阿部氏の方が早いのです.

 また,井黒氏が竹内運平のノートに書かれてあったのをみたと紹介した「ペルリノ日本ヘ来タリシ時分,余ハ樺太ヲ跋渉シ,箱館ノ船問屋佐藤軍兵衛ト言フ者カラ地図ヲ得シガ故ナリ」という榎本談話は,阿部(1965MS)によると雑誌「旧幕府」(第五号)に「榎本子談話」として載っていることが示されています.つまり,この件に関しては,阿部たつを氏のほうが初出が早いし,正確だということになります.

 では,その「榎本子談話」を再録しておきましょう.

「函館戦争の時,鷲ノ木へ兵を上陸せしめ,本道と間道の二手に別れて進み,或は松前を撃ちし時,吉岡峠の敵を敗る為に,間道に兵を送りしも,蝦夷の地理を知りし故なり.此の地を知りしは,ペルリの日本に来たりし時分,余は蝦夷を跋渉し,函館の船問屋佐藤半兵衛と云ふ者から地図を得しが故なり」

 ついでに,同誌第四号の榎本の漢詩を示しておきましょう.

 失 題     榎本 梁川

 靺鞨之山青一髪 我行至此漸堪豪
 宝刀横処鬼呵護 胡馬嘶時風怒唬
 短鞨早天衝暁霧 孤帆残月乱秋濤
 扶桑南望三千里 頭上驚看北斗高

(付記:榎本釜次郎氏十八歳にて堀織部正に従ひ蝦夷地を跋渉せし時に吟ぜしものなり)

 阿部たつを(1965MS)からの引用を続けます(ただし,榎本はこの年まだ「釜次郎」を名のっていたはずなので,原著の「武揚」は「釜次郎」に訂正させていただきます).

 釜次郎十八歳は嘉永六年で,まさにペリーが日本に来た年である.
 釜次郎が織部正に従って蝦夷地を跋渉したのは十八歳(嘉永六年)とあるが,織部正の蝦夷地巡視は翌安政元年であるから,釜次郎十九歳の時であろう.

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