2017年8月8日火曜日

オプタテシケ プルケ プルケ

オプタテシケ プルケ プルケ

 我がふるさとに住むアイヌには「オプタテシケ プルケ プルケ」で始まるウポポがあるそうだ(近江,1931).
 近江の文章は,話の筋を追いにくいので誤解があるかもしれないし,アイヌの言葉や話の筋を正確になぞったものかどうかも疑問の余地があるが,「オプタテシケがプルケプルケ」したときに「山が湧き返って...」,アイヌたちは「みな縄を持ってよじ登り…逃れた」という.
 プルケはpur-keで「大水(がでる);洪水(が起きる)」という意味(知里,1956)でプルプルケといういい方もあり,こちらはpur-pur-keで「(清水が)ゴボゴボと噴き出している;煙をふいている」という意味らしい.そうすると,「オプタテシケ(山)から,煙もしくは大水が出た」という意味になる.近江は「山が湧き返って...」と表現している.これでは,火山活動のことかと考えてしまうが,近江は以下のようにつづける.

 そのころには,上川盆地にはあちこちに「当麻の親子山」,「東旭川の桜岡(採石の結果,現在は丘は存在しない)のように平地に突出した丘がたくさんあって,石狩川はその間を曲がりくねって流れていた」という.現在でも,写真のように,盆地にはたくさんの残丘が残っている.石狩川の洪水のときには,これらの丘に登って難を避けた,ということらしい.
 これらの残丘群は,チャート,緑色岩,泥岩,石灰岩からなる岩体で,典型的な残丘となっているところはチャートが卓越している.これらの岩石から産出する微化石は古生代後期から中生代に渡ってさまざまな年代を示し,メランジェと呼ばれる複合岩体をなしている.


(当麻残丘群)

 さてそのころ,今の神居古潭の場所には数千mの滝があった.
 「ある年,オプタテシケの山が大爆発するとともに,盛んに火を噴き溶岩を飛ばし,泥水といっしょに種々雑多のものを流した.水といわず,石といわず,泥の海が一時に押し寄せ神居古潭の堅い岩石を突き破って滝がなくなった.」という.
 「凸凹と突き出ていた山々は,この洪水のために,すっかり押し流されて現在のような広い平野ができあがった.」そうである.
 そのとき,今の近文アイヌの祖先たちは,石狩川の洪水のときと同じように丘に登って難を逃れたという.

 ところで,今のオプタテシケ山は十勝岳火山群の最北端に位置するので,大噴火したとしても上川盆地の話とは噛み合わない.それに,オプタテシケ火山の活動の最後は約26万年前と考えられているからだ(石塚ほか,2010).26万年前といえば,ミンデル-リス間氷期の最中で,旧石器時代華やかなりしころにあたる.古代型ホモ・サピエンス(ネアンデルタール人など)の時代であり,現代型ホモ・サピエンス(H.サピエンス サピエンス)まだ出現していないのだ.その時代の記憶をアイヌが持っているというのはね….


(図 十勝岳火山群活動ステージ;石塚ほか,2010)

 さて,ではオプタテシケとはなにか.
 オプタテシケというアイヌ語は,今では意味不明だそうだ.が,一説にはop-ta-teskeで「槍がそこに反り返っている」という意味であるという.つまり,鋭く聳え立った山容,えぐれた山を意味しているらしい.三角錐~四角錐の山体,あるいは爆裂火口を持った山をイメージするとよいか.日本語でも聳え立つ山を「~槍」,「槍~」と表現することがある.そして,そのような山容をもつ山は道内には複数個所ある.そして,むかしオプタテシケと呼ばれた山も複数ある.“槍のような”山はたくさんあるのだ.
 これはアイヌ語の特性である.アイヌ語の地名というのは“固有名詞”的なのはなくて,その土地の性質をそのまま表したものが多いのだ.
 上川地方のオプタテシケは,現在では(和人の命名法に従って)十勝岳火山群の最北端の山に特定されてしまっているが,アイヌたちは十勝岳火山群のとくに“オプタテシケ型”の山をそう呼んでいただけなのだ.大雪山連峰でも,とくに現在の旭岳はオプタテシケと呼ばれたこともあるらしい.そういえば,旭岳と(現在の)オプタテシケはえぐれ方が似ている.
 ところで,わたしは「槍~」という山を見ても槍を連想したことがない.旭山やオプタテシケ山の形を見ると,(ふつうに連想する)槍よりも,アイヌがヒグマを仕留めるときに使うという木杭の先端を思い起こしてしまう.
 なんにしろ,「オプタテシケ プルプルケ」のオプタテシケは,現在のオプタテシケ山に限定されては,よくわからないことになるのだろう.

 さて,それでは「プルケ」とはなんだろう.
 プルケはpur-keで「大水(がでる);洪水(が起きる)」という意味(知里,1956)でプルプルケといういい方もあり,こちらはpur-pur-keで「(清水が)ゴボゴボと噴き出している;煙をふいている」という意味らしい.近江は「オプタテシケの山が大爆発するとともに,盛んに火を噴き溶岩を飛ばし,泥水といっしょに種々雑多のものを流した.」といっている.
 単なる噴火ではないようだ.
 噴火そのものより,それを引き金におきた泥流の被害が大きかった,ということだろうか.
 大正時代に十勝岳の噴火に伴い,大規模な火山泥流が起き,大災害をもたらした.詳しくは,旭川の生んだ小説家・三浦綾子が「泥流地帯」を残しているので,読めば実感できるだろう.
 十勝岳の大正泥流は富良野側に起きた災害が有名だが,そのとき実際には,泥流は美瑛側にも流れている.ただ被害の方はよくわからない.美瑛町のハザードマップでは,美瑛市街迄泥流が来ることを前提としている.
 それでも美瑛の丘を越えて,上川盆地側(とくに近文や神居古潭近辺)に流れてくるとは考えにくい.

 そこで考えられるのは二つ.
 ひとつは,富良野・美瑛地域に住んでいたアイヌが,泥流被害に住居をあきらめて上川盆地に移ってきた.そこで,過去の記憶を伝えるうちに泥流被害の場所が混同されてしまった.これを検証する方法はないが,美瑛>ビエイ(和人変換)>ビイエ(和人聞き取り)>ピイエ(アイヌ発音):もとは,piyeだったというから....piyeは「脂っこい,脂ぎった」という意味で,これでは意味がわかないが,十勝岳火山から流れ込んだ硫黄分が川を汚していたからだと解釈されている.
 白金の「青い池」は最近有名になった観光地であるが,あのように不純物で汚れた水が流れておれば,アイヌが撤退しても不思議はない.ちなみに,青い池の正体は水酸化アルミニウムのコロイドによる太陽光の乱反射,だそうである.
 ちなみに,一本北,上川盆地側を流れるベベツ(辺別)川は,pe-petで「水の川」,(=水量が豊富)という意味だそう.ピイエとは,じつに対称的である.


青い池


 もうひとつの可能性は,旭岳の爆発に伴う泥流災害があったかもしれないということ.大正泥流被害が甚大であった十勝岳は,大正泥流のほかにいくつもの泥流堆積物が研究され発見されている(藤原ほか,2007;南里ほか,2008)が,旭岳にはそのような知見はない.だがそれは,明瞭な泥流被害がないから研究されていないだけなのかも知れない.
 そういう目で見れば,今後上川盆地あるいは旭岳山麓から泥流堆積物が見つからないという保証は無い.その目で見なければ,見えないものもある.
 アイヌの伝説をもとに,多くの津波堆積物の研究が進んでいる事実は,大いに参考になるだろう.

 オプタテシケ,プルプルケ....

 実際に,このウポポを聞いて見たいものだ.
 

2017年6月29日木曜日

アイヌの伝説と神居古潭

アイヌの伝説と神居古潭

オプタテシケの噴火
昔,神居古潭のところに数千丈の滝が有り、その高台にアイヌのコタンがあったが、或る年突然,大雪山と十勝岳の間のオプタテシケ*の山が大爆発をして、火を噴き熔岩の流れはあたりの岩石を突き破り、山を押し流し滝の下流をうずめつくして(原文は「うずめうくして」の誤植)しまったため、広い平野がで来てしまった。この爆発の時、アイヌの先祖達は爆発から起こる洪水をのがれるために、高いところへ高いところへと,縄をつたって逃げたが、現在上川に住んでいるアイヌの人達は、皆その時生き残った人の子孫で、今も神々に酒をあげるときにはオプタテシケにもあげている.
(近江正一「伝説の旭川及びその附近」)より
更科源蔵「アイヌの伝説集」より
*この一節は,更科源蔵は近江(1931)から引用したように記しているが,
近江には以下のように書かれている

上川原野太古の伝説
近文アイヌのウポポ(神前に捧げる祭詞)にオプタテシケ,プウルケ**,プウルケの祭文即オプタテシケの山が湧き返って人々は皆縄を持つ攀ぢ登り右往左往に逃れた…といふのがあるが太古上川平原の其處彼處には当麻の親子山,東旭川の桜岡のやうに平地に突出した岡が沢山あつて石狩川は其の間を曲りくねつて流れて居た.丁度カムイコタン(神居古潭)の個所には数千丈の瀑があつた.其の高地にアイヌ部落があつたのであるが或年オプタテシケの山が大爆発すると共に熾んに火を噴き熔岩を飛ばし泥水と共に種々雑多のものを流した.木といはず石といはず泥の梅が一時に押し寄せカムイコタン(カムイは神コタンは村,即ち神様の居る所の義)の堅い岩石を突き破つて滝がなくなつたが凸凹と突き出て居た山々は此の洪水の爲めにすつかり押し流されて現在のやうな廣い平野が出来上つたものである。その時アイヌの先祖達は此の洪水から逃れる爲めに縄で高い處高い處へと逃げ随分死減したのであるが現在上川に住んで居るアイヌ達は此の時生き残つた人々の子孫である.さうして此の時を忘れないやうに又カムイの恩を讃へる心持でオプタテシケプウルケプウルケのウポポを祭祀のある度毎に神前で唱へ続けて来たものである.
近江正一(1931)

 十勝岳火山群の発達史は,
  「新期十勝岳火山群(5~6万年前以降)」:鋸岳・美瑛富士・グラウンド火口・中央火口丘・焼山溶岩・摺鉢火口丘
  「中期十勝岳火山群(30万年前~数万年前)」:白金溶岩・奥十勝岳・上ホロカメットク山・オプタテシケ山・ベベツ岳・美瑛岳(新)
  「古期十勝岳火山群(100万年前~50万年前)」:原始ヶ原・前富良野岳・大麓山・富良野岳・古十勝岳・美瑛岳(古)
 の三つに分けられています(石塚ほか,2010;藤原ほか,2007;河内,1990など).
 つまり,現在オプタテシケ山と呼ばれている火山の活動時期は中期の初期(29~23万年前)となります.そうすると,前記二伝説のお話しは,29~23万年前ということになってしまいますね.アイヌ民族には旧石器時代の記憶がある? まさかね.
 脚注に示したように,じつはアイヌが“オプタテシケ”と呼んでいた山は,現在の和人がいうところの「オプタテシケ」とは一致していません.しかし,“オプタテシケ山”噴火の記憶があるとすれば,この“オプタテシケ”山は石狩岳か十勝岳である可能性が高いということになります.旭岳が最後に噴火的爆発を起こしたのは3000~4300年前といいますから,より可能性の高いのは十勝岳なのでしょう.
 でも,白滝ジオパークの黒曜石は二万数千年前から使われているといいますから,その頃には,のちのアイヌ民族に繋がる人たちが居たわけで,旭岳の噴火に遭遇しなかったとはいいきれないのが現状です.

 さて,どちらだったのか,またいつ頃のことなのか,それは置くとして,次の話題.
 「当麻の親子山,東旭川の桜岡のやうに平地に突出した岡が沢山あつて石狩川は其の間を曲りくねつて流れて居た」とありますが,どちらも上川盆地の平地に突きだした残丘です.これらは,チャート,緑色岩,泥岩からなるメランジュ岩体で,突出部はおもに赤色チャートからなる場合が多いものです.ほかにも当麻山,棚瀬山,あるいは突哨山なども同様の岩石からなっています.

 これには,いろんな地学的話題がでてきますが,次は神居古潭が「滝であった」という話題.
 オプタテシケの噴火前までは,今の神居古潭渓谷は完全に閉じており,数千丈は大げさとしても深川側へは「大瀑布」があったというのです.それを信じるならば,当時の上川盆地は“上川湖”だったことになるのでしょうか.非常に残念なことに,旭川周辺は露頭条件が悪く,気軽に観察できるようなところは少ないです.しかし,盆地の地下に関しては,地下水ボーリングコアの解析がおこなわれており,それには旭川層は上部層下部層共に「河川堆積物」とあって,湖成層は見られないようです.すると,旭川付近が湖であったとする地質学的な証拠は見つかっていない,とするしかありません.
 一体どんな事件が,このような伝説を残したのでしょうね.
 オプタテシケ,プルプルケ....十勝岳の泥流?

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* オプタテシケ:現在は,トムラウシ山と十勝岳の中間あたりにある山をオプタテシケと呼んでいるが,オプタテシケ山の実体は相当に複雑である.
阿寒地方,屈斜路湖には藻琴山の対岸に“オプタテシケ・ヌプリ”があり,オホーツク海から押し寄せてきた大津波に藻琴山もその附近のすべての山もすべて水没したが,オプタテシケヌプリだけは頂上に波をかぶらず,そこに避難していたアイヌは助かったという伝説がある(釧路弟子屈町屈斜路湖・弟子カムイマ老伝;更科,1981).上川では,更科(1981)は上記のように「大雪山と十勝岳の間のオプタテシケの山」としているが,引用元である近江(1931)は場所を特定していない.しかし,文脈からは「上川盆地周辺」であることがいえる.ところが,更科(1981)は「オプタテシケと阿寒の争い」(吉田巌「アイヌの伝説について」)を引用しているが,そこには「大雪山系の尖峰オプタテシケ」が雌阿寒岳と夫婦であったと書いてある.また同時に雌阿寒岳と夫婦であったのは「オプタテシケではなく石狩岳」という安田巌城「十勝地名解」;酒井章太郎「十勝史」も引用している.一方,金田一(1936)は,「北海道本島の凡そ中央とおぼしい所(中略)にオプタテシケがある」とし,十勝からも石狩平野からも「遠く仰がれる高嶺である」とし,「これこそ北海道最高の地点だと信じられて居る」としている.つまるところ,現在「旭岳」と呼ばれている北海道最高峰こそが「オプタテシケ」といっているわけである.これについて,太田満「アイヌ語ラジオ講座のコラム,石狩紀行(5)」で「Optateskeが何処を指すかについては①十勝岳連峰のうち十勝岳以南の諸山を指す,②同じく十勝岳以北を指す,③十勝岳連峰と大雪山塊を指すという説があり,一定しません」としている.また,「語源については山の神々が恋争いをした際,投げられた槍が逸れたという伝説と共に『槍が逸れる』と説明されます.確かにopは『槍』,teskeは『逸れる』なのですが,taが分りません.今後の研究によって解明される日が来るのでしょうか.」と結んでいる.
** プウルケ:不詳.pur-ke (ぷるけ)=大水(が出る);出水(する);洪水(が出る);津波が来る.pur-pur-ke(ぷるぷるけ)=①(清水が)ゴボゴボ湧き出ている.②煙をふいている.(知里,1956)


神居古潭の神々
大昔は神居古潭のところまで海であって、その川口のところ(今の神居古潭のところ)に石狩アイヌの部落があった。そして石狩川の神である蝶鮫は、いつもこの神居古潭の渕にいて、水の上に脊鰭をみせていた。この蝶鮫のシャメカムイと、山の神である熊とは大変仲がよかったし、石狩アイヌと上川アイヌも非常に仲がよかった。
秋になって石狩川に鮭がとれるようになると、両方の部落の人達は先ずその最初の鮭を、シャメカムイと山の神様にあげるのであるという。そして石狩アイヌが石狩川を遡って来るときには、必ず舟の舷をたたいて、石狩アイヌであるという合図をした。もし舷をたたかないでここへ入って来る者があると、石狩川の神のシャメカムイは舟を動かないようにするか、舟をひっくり返して溺らせ、ここから奥へよそ者を入れないようにしたという。
上川アイヌもこのシャメカムイと、キムンカムイ(熊)に護られて平和な生活が出来た。それで両方の神様のいたこの土地をカムイコタン(神様の部落)というようになったという。
ところが或るとき、魔神のニッネカムイがここに現われて、アイヌの魚をとる邪魔をして、人間共を亡ぼそうとしてあばれたことがあった。そこでシャメカムイが大変怒ってニッネカムイを捕えて殺して岩にしてしまった。その岩をニッネカムイといっていたが、現在は女夫岩とよんでいる。
このときの争いであたりが崩されたり流されたりして、陸地が今の石狩の方までのびてしまったのであるという。
(近江正一「伝説の旭川及びその附近」)
更科源蔵「アイヌの伝説集」より

更科は近江(1931)を引用したかの様に書いていますが,近江は以下のように書いています.

神居古潭の伝説
ずっと古い昔の話である。其の頃のカムイコタンが石狩川の河口で太古はあれから下流は海であつた。毎日々々帆掛け舟が何隻となく這入って来ては、石狩アイヌの捕らへた熊,鹿、鷹、狐、鮭,鱒と珍しい器具と交換したものである。今は石狩川口に住んでゐると伝へられてゐるシヤメカムイ*(石狩川に棲息するテウザメ)といふ神様が神居古潭停車場附近の深い淵に住んで居たが日のよく輝やいた日には美しい背名かを水面に出して居たものであった。此シヤメカムイと山のカムイ**(ヨモサク翁は熊の事であると話した)は非常に仲が良く一方は水一方は山で上川アイヌの守護神として崇められて居た。秋になつて鮭が捕れるやうになるとアイヌウタリ(アイヌの人々)は自分達の食ふ前に必ず此シヤメカムイと山のカムイに捧げたものである。石狩川を遡つて来るものは石狩アイヌであると必ず舷をたヽいた。これがシヤメカムイに「乃公は石狩アイヌでシヤメカムイの乾分であるといふ符丁であった。(後略)
× × ×
(前略)ニチエネカムイ***(鬼又は化物)がカムイコタンに来てアイヌ達に魚も捕らせなければ此種族も減ぼしてしまふと荒れ廻った時にシヤメカムイが現はれて大格闘の末に此ニチエネカムイを殺してしまつた。此の戰で多くの地面を流し突き進んで陸を作り現在のやうに石狩川口迄が陸になつたのである。カムイコタンから下流が海であつたのは事実で其の証拠にオトエ、タドシ****附近の貝塚から出るものは全く海の貝類の化石ばかりである。シヤメカムイに殺されたニチエネカムイは死んであのニチエネネカムイ岩となつたものだが,カムイコタンといふのはカムイの居る川口の村といふ意味であると云ふ.
(後略)
近江正一(1931)

 太古には,神居古潭が石狩川河口で,そのむこう深川方面は「海」であったとのこと.そんなバカなとお思いでしょうが,アイヌの伝説はその証拠として「音江」や「多度志」の貝塚をあげています.貝塚があるかどうかは知らないのですが,音江,多度志は滝川層分布地域で,タカハシホタテをはじめとして,クジラ,カイギュウなど多数の海生動物の化石が産出するので有名です.つまり深川は海だったのです.もっとも,300~500万年前ですけども.(^^;
 川沿いを歩いていて,岩盤に張り付いた無数の貝化石をみて,そこが海だったと理解したアイヌの自然観察力は驚きですね.当時,帆掛け船が這入ってくることはなかったと思いますが....

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* シヤメカムイ:same-kamuy/shame-kamuy(さめ-かむい/しゃめ-かむい)=サメの神.(石橋孝夫,2015より類推)
** 山のカムイ:kim-un-kamuy(きむん-かむい)=山にある神(知里,1956).更科の引用ではキムンカムイになっているが,引用元の近江(1931)では「山のカムイ(ヨモサク翁は熊の事であると話した)」となっている.もとは「iwor-kor-kamuy(いうぉる-こる-かむい)=山奥を支配する神」(知里,1956)なのかも知れない.
*** ニチエネカムイ:nitne-kamuy(にっね-かむい)=魔神(知里,1956).「wen-kamuyも「悪い神」であるが違いは不明.
**** オトエ、タドシ:音江,多度志:ともに滝川層群の分布地.


(洪水伝説)*
神居村台場ヶ原の一端が突出して断崖をなし,忠別太と境する附近の崖上は,和名立岩,アイヌ語カムイ岩又はイペタムシユマ**と称する所であるが,此のイペタムシユマ(恐ろしい刀の岩)及び同所ホトイバウシ***(呼ぶ場所)には神秘的な伝説が遺されてゐる.(中略)
ホトイバウシ(呼ぶ丘)の伝説はこうである.
往古上川平野に大洪水があった.当時の酋長が此処に立って避難するアイヌウタリを呼び集め,前面の嵐山・近文山に避難した一族の安否を心配して大声で問ふた事から此名が起こったものであると云はれてゐるが,昔此地にポルクニウングル****といふ大酋長が要塞を構え,時々はあの強力なるシヤマイグルと戦争を交えたといふユーカラも残されている.
近江正一(1931)

 イペタムシュマは現・旭川市忠和3条1丁目の路傍に立つ層状赤色チャートの巨岩です.同様の巨岩は石狩川の中州(鷹栖町)にもあって,こちらはノチウ(nociw=星)と呼ばれています.星が落ちてきてここに突き刺さったという伝説があると云われますが,今のところ原典は見いだしていません.近江(1931)は「此の附近にある岩も古は泥の如く柔らかいもので今のオサラツペ川口附近の大きな岩は大海潚の時に流れて來た鯨が化石になったものであると,言い伝えられて居る」としています.
 近江は「泥の如く柔らかいもの」としていますが,それはもちろん,放散虫軟泥のこと.近江が源岩を放散虫軟泥と理解していたかどうかは分かりませんが,この源岩が一億年もかけてはるか南東から太平洋を渡ってやってきたことは知らなかったでしょう.
 さて,ふつう大海潚(大海嘯)といえば津波のことですが,多くの人はこれを上川盆地を襲った大洪水の事だと考えています.しかし,これはいわば残丘であって,もともとここにあったものが石狩川の流れで洗い出されたもの.とても,破局的な現象で一時にあらわれたものとは思えないですね.
 さてさて,津波伝説はこのあと.

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* 洪水伝説:原著(近江,1931)には,とくに標題はない.仮に付け加えた.なお,句読点も付加してある.
** イペタムシユマ:ipetam-suma(いぺたむ-すま)=人食い刀-岩.
*** ホトイバウシ:otuypa-usi(おとぅぃぱ-うし)=叫ぶ,呼ぶ-場所.
**** ポルクニウングル:不詳.ポルクニウンクルという表記もある.
***** シヤマイグル:サマイクル(Samayekur)という表記もある.アイヌの英雄神の一人.


(津波伝説)
かっこうの津波知らせ(原題:かっこうに助けられた子)
ハムカッコゥ,カッコ,カッコ
アイヌの子どもと和人のおとなたちが,魚を取ろうと,海辺に,葦を切った上に大きな家を建てた.ところがどうも毎日毎日雨つづきで,みんなうんざりしていた.
ある日のこと、かっこうの子どもが,
「津波が押し寄せてくるぞ,みんな早くそこから逃げろ」と,くちばしをパクパクさせて,あちらこちらと飛びに飛びまわって知らせた.
羽のある鳥たちは,それを聞いてすぐ海辺を去り,アイヌの子どももころぶようにして逃げ去った.家へ向かってとんで帰った.
ところが浜辺の和人たちは,おしゃべりをつづけ,夜も昼もにぎやかにおしゃべりをしていた.それでかっこうの子どもの声なんぞてんで気にしなかった.
ある日のこと,沖合いで大きな音がドーンとした.それで小鳥たちが,いっせいに飛び散った.けれど和人たちはやっぱり,おしゃべりをつづけていた.私(子どもたちの母親)の子どもが,突然私のそばにころがりこんできた.私はわが子を二つの腕で抱きかかえた.私は両腕をすぼめて海辺へ向けて歩んでいくと,大きな山が見えてきた.津波が押し寄せていたんだ.私は急いでご飯を炊く道具と弓を手にして,山へ向かって走りに走った.どんどん,どんどん逃げて,山の頂にある大きな松の根元まで逃げてきて,
「私どもはアイヌでございます.いつも拝んでいる神がいるのに,これはまたどうしたことか」と声に出しながら,更にまた逃げて,山の上ヘ上へと登っていくのだった.
山の頂の,大きな松の木に私たちはよじ登って,松の葉の茂みの中にひっそり隠れていた.
さて夜が白々と明けてきた.あたりを眺めると,魚をとる家は影も形もなかった.津波がさらっていったのだ.
私どもは,あのかっこうが津波を知らせてくれたので,こうして,私の子どもたちともども,まるでかっこうのように,そっとひそんでいたので,みんな助かったのだ.
これからはどんなことがあっても,かわいいこの子たちを手離すまいと思っている.

さて,それから後,私(主人公の子ども)の名前はこうなったの------「カトコロエカチ(幸せな子)」.私の名前がそうなったのは,かっこうの神が私に津波を知らせて逃がしてくれたので,そう呼ばれるようになったのだ.
原話語り手 門野ハルエ*------上川・旭川市
出典「日本の昔話2・アイヌの昔話」稲田浩二編より。
「アイヌの昔話」稲田浩二(2005)

 長々と引用してしまいましたが,驚いたことに,旭川のアイヌが津波伝説を語っています.前出の,神居古潭から向こうは海であったという伝説をふつうに支持しています.ほかにも,次に示す伝説のように...

神居古潭の船つなぎ岩
神居古潭の釣橋の下手にある岩に,ベンザイトゥシコテシララ**(弁財船の綱つなぎ岩)という名がついている.昔ここまで海であったので弁財船が来たときに,船を繋ぐところであった.その縄をしばる穴が今も残っている.
(旭川市近文 石山秋三郎老伝)
更科源蔵「アイヌの伝説集」より

...神居古潭の下流は海であった前提です.
 門野家の先祖に当たるクーチンコロは,開拓使の石狩川下移住命令に反抗し,ただ一人で兵部省石狩場所の役人を相手に論陣を張り,命令を撤回させたという過去がありますので,上川アイヌ(のごく近い先祖)が元は石狩河口に住んでいたとは考えにくいのですが,遠い先祖は石狩下流に住んでいて,上川に移住してきて住み着いた,という可能性はあるでしょう.もちろん,留萌方面から移住してきたという可能性も.津波の記述に関してはかなりリアルなので,伝聞ではなくて,そのときの経験を元にできた津波伝説という可能性が高いと思うのですが....

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* 門野ハルエ:上川総乙名クーチンコロの孫・門野ナンケアイヌの妻.

** ベンザイトゥシコテシララ:pencay-tus-kote-sirar(ぺんちゃい-とぅし-こてしらら)=弁財船の・綱を・繋ぐ・岩(知里;由良,1990, 2006).昭和40年ころ,破壊された.高校生の仕業とも,銘石泥棒の仕業ともいわれている.

2017年6月22日木曜日

アイヌの伝説と火山(4)

アイヌの伝説と火山(4)
大雪山

大雪山の伝説
大雪山*には、昔から非常に偉い神様が住んでいて、石狩アイヌの上に何か危険なことが起きかけると、人間の姿になって現われて救ってもくれた。
この神様は大雪山附近に住みついて、山に火を噴かせる魔神などを押えていてくれたので、魔神はここをのがれて、美瑛川の上流地域にかくれているから、美瑛川上へ行ってはならないと伝えられている。
大雪山の山腹に、赤く焼け土の現われているところは、神様の遊び場といって、天の雷神が来て休むために、あたりが焼けて赤くなったのであるという。
(近江正一「伝説の旭川及びその附近)*
更科源蔵「アイヌの伝説集」より
*この一節は,更科源蔵は近江(1931)から引用したように記しているが,
近江(1931)には以下のように書かれている

由来ヌタツプカムシュペというのは石狩国中に二個所あって一は大雪山系を指し(中略)ヌタツプといふのは川がうねり続いてゐる所に突き出てゐる所の義で石狩川の長流が幾筋となくうねつて居る所に高く突出してゐるからであらう.夏シヤモ**(和人)が見ても見られる筈であるがヌタツプ山腹に赤く禿げた所が一面にある。此処をアイヌはカムイミンダラ***と云ってゐる.カムイは神ミンダラは遊ぶ所,カムイミンダラで神の遊ぶ場所といふ意味となる.アイヌウタリ****は物凄く響く雷鳴を屢々聴いて雷が暫らく此処で休むのであると考へたのであるさうだ.それでアイヌは来客が腰を下ろして話をする鴨居を称してミンダラと呼んでゐる.
× × ×
ヌタツプカムシユペには山のカムイ(熊)の大将が凄んで居る.其の大将は石狩アイヌの危急な場合には必らず人の姿に化けて彼等を救ひに来てくれる.胆振の樽前山のやうに火を噴いても焼け石やら山崩れのしないやうに其の大将は常に石狩アイヌを守護して火を噴く悪魔を征服して居てくれる.それでも火を噴く悪魔は石狩アイヌを亡ぼさうと思ってゐるので美瑛川の上流にホンペといふ所があるが其處から上方には行かれなかったものであると云ふ。(後略)
近江正一(1931)

 有珠や駒ヶ岳には噴火のことが詳細に記されていますが,大雪山にはそれがありません.ただ,火を噴く山であるらしいことや,山腹が焼けた裸地であることが記されています.現在も噴気があるほかは,有史以降の火山活動の記録はなく,アイヌも見たことがないのかも知れません.
 野口・和田(1998)は,大雪火山の形成史を「前カルデラ期」,「カルデラ期」,「後カルデラ期」の三つにわけています.さらに細分もしていますが,ここでは触れません.要するに大雪火山は,基本は一つのカルデラなわけで,これは「お鉢平カルデラ」と呼ばれています.現在活動しているのは後カルデラ期の火山群というわけですね.
 後カルデラ期:約3万年前から現在へ.お鉢平を取り巻く火山群が活動した.
 カルデラ期:約3万年前.お鉢平カルデラが形成された.
 前カルデラ期:約100万年前~3万年前.たくさんの成層火山が形成された.

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* 大雪山:「大雪山」という名称は,和人が後代に与えたもの.アイヌは近江(1931)が示すように「ヌタップカムシュペ(nutap-ka-us-pe;ヌタプ・カ・ウシ・ペ:由良,2004)」と呼んでいた.nutapは川の流れが蛇行し取り囲んでできた「袋地」のこと.全体の意味は「ヌタプの上にいつも居るもの」で,石狩川が取り囲んでいる“大雪山系”の形状を意味していた.もっぱら和人の都合で大正末期に「大雪山」と書きかえられたものである.
** シヤモ:sí-sam(しさむ)=①隣国,②隣国人,異人,③日本人(知里,1956).
*** カムイミンダラ:kamuy-mintar(かむぃみんたる)=①熊の遊び場,②古くは山上の祭場をさしたらしい(知里,1956).
**** アイヌウタリ:aynu(あぃぬ)=人,男(知里,1956).utar, utari(ウタル,ウタリ)=同族,人々(不詳).地域によって微妙に使い方が異なるが,aynuは「(神に対する)人」),utariは「同族,仲間,親戚」のように使い分けているようだ.


愛別サン山の神
石北本線愛別にある愛別川の奥にサンという山がある。この山には昔からサン・コロ・カムイという神様がいて、病魔などが来ると一喝のもとに追い払う力を持っていて、天然痘の流行して来たときには、川下の人々は皆この山より川上に逃げると、サン・コロ・カムイが途中で疱瘡神を喰い止めてくれるので、それ以上人間を追って来な(い)といって、この附近の人々はこのサン・コロ・カムイを徳として、祭りや願い事に酒をつくると,必ずこの山にも酒をあげるのをならわしとしていた。
(川村ムイサシマツフチ伝)
更科源蔵「アイヌの伝説集」より

 「サン」(和名:石垣山)という山は,国道39号線を旭川から層雲峡方面へ向かうときに,中愛別付近の直線道路を進行中に,右手に見える平坦な山がそれです.見事な柱状節理が石垣様に見え,まさに石垣山ですね.
 しかし,これは和人の見方.アイヌは山の形状を重視し「サン」と名づけました.そこに「神がいる」というわけです.当時のアイヌの心情を推し量ることは困難ですが,なぜここに神がいるのか,少し考えてみます.「疱瘡神」が出てくるということは,これは和人との交流は起きてはいますが,まだ和人がそれほど多くはなく,また奥地にも入ってきていない時代と思われますね.このころ,和人が持ち込む流行病とくに天然痘は,免疫のないアイヌ達にとっては,部落一つが全滅するほどの恐ろしい病気でした.まさに「別の神でしか食い止めることが出来ない」恐ろしい「悪神」の仕業と映ったわけですね.部落に感染者がでた場合,速やかにコタンを放棄して逃げるしかなかったわけです.そうして,石狩川沿いに奥地へと逃げると,逃げられるのは感染していない元気な人間だけですから,上流部に逃げた人間達は無事であった.「なぜか?」と考えたら,「善神の仕業にちがいない」,それであたりを見渡すと,いかにも神のいそうな,悪神を防いでくれそうな「石垣の山」があった....というわけではないかと想像するわけです.サンには神がいるのに違いない.そんなことから「サンコロカムイ」は生まれたのではないか,などと((^^;).
 又,この石垣山の柱状節理には「洞窟」があり,江戸時代に間宮林蔵や松浦武四郎が野宿したとして有名です.

 さて,地質学的には「石垣山」の本体は,東山熔岩(藤原・庄谷,1964)と命名されています.
 地質図幅調査時は一括して平坦熔岩と呼ばれるものの一部として鮮新世の活動とみなされていましたが,1980年代末期になって,地域によって活動時期や岩石の性質が異なることが示され,石垣山の東山熔岩を含む米飯山熔岩は中~後期中新世の火山活動であると見直されました(渡辺・山口,1988).
 たぶん,北見グリンタフ地域の周辺部に当たり,グリンタフ活動末期の火山活動の一部なのでしょう.これが引きつづき第四紀に入って北東北海道の現世火山に繋がってゆくわけですね.もちろん,大雪山や十勝岳をつくるたくさんの活火山がこれに入ります.

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*サン・コロ・カムイ:san-kor-kamuy=サンを-支配する-神.アイヌは,現愛別町の石垣山を「サン(san)」と呼んでいた.san, saniは①坂,②出崎,③棚;棚のような平山,④山から浜へ吹きおろす風,などを意味(知里,1956)し,この場合は大雪山から突きだした②出崎でも,全体の形が③棚のような平山でも,あてはまる.


層雲峡のパウチ・チャシ
大雪山の入口層雲峡*には奇岩が連なっているが、これは昔,パウチ・チャシ又はパウチカラ・コタンと呼ばれ,パウチという妖精がつくった部落で、この奇岩はパウチの砦であるというのである。
パウチ**とは,パウチカムイともいわれ,元は神々の着物をつくらすと、誰も真似のできないほど立派なものをつくる技をもっているが、元来心の良くない神様で、これに憑かれた人間は男も女も素裸になって、世界中を踊り狂って歩き、あらゆる狂態を演ずるもので、これらの一族は今も世界中を廻っていると言われている.
(名寄市日進・北風磯吉老伝)
更科源蔵「アイヌの伝説集」より

 知里(1961)は「パウチたちは,(このように)ふだんシュシュランペツの川のほとりで踊り暮しているのである」と述べています.シュシュランペツ(あるいはススランペツ)は,もともと「tusu-ram-pet(トゥスランペツ)=巫・神・川」の意味で,パウチたちは,北海道のアイヌには淫魔と思われていますが,樺太(サハリン)の古謡では巫女の意味にもちいられ.その憑神をもいう語だったといいます.
 淫魔の砦じゃあ,ちょっとなんですが,ギリシャ神話でいうエロス風の妖精だとすれば,その砦ならば,層雲峡の美しさにあうかも.
 さて,この層雲峡の奇岩は,層雲峡溶結凝灰岩(国府谷ほか,1966)と呼ばれています.これは,大雪山連峰の前身である“御鉢平火山”が約三万年前に大爆発を起こし,大量の火砕流・降下火砕物を噴出しましたが,それらが積み重なり,熱によって溶結してできたものです.元はきれいな柱状節理でしたが風化が進み,いわゆる奇岩として現代の我々の目に触れているわけです.

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* 層雲峡:「層雲峡」とは和人が和風の名前に書きかえたもの.もとは層雲峡の入り口付近にソーウンペツと呼ばれる部落があったからと思われる.現在でも「双雲別川」と呼ばれる川が流れているが,このあたりにあったものか.so-un-pets=滝-そこにある-川,の意味.それより上流がso-un-petsであるコタンで双雲別と呼ばれていたか.
** パウチ:「パウチはむしろ淫魔とか淫乱の神とか訳すべきもの」(知里,1961「えぞおばけ列伝」)

2017年6月4日日曜日

アイヌの伝説と火山(3)

阿寒カルデラ




阿寒岳*と阿寒湖の創世
この世の中がまだ海ばかりであったとき,神様は海ばかりで面白くないからといって,色々の山をつくったが,阿寒もその時にできたものである.ところが一つだけでは淋しくて可哀想だというので,もう一つつくって夫婦にしたのが,今の雄阿寒岳(ピンネシリ)と雌阿寒岳(マチネシリ)である.なおその時出来た湖の中にも,休む場所がなくてはいけないというので,ところどころに島をつくったので,阿寒湖の中にはいくつもの島があるのだという.
(近藤直人氏輯)
(更科源蔵「アイヌ伝説集」

 阿寒カルデラをつくった“阿寒火山”がいつ頃から活動しているのか,地質学的な証拠はないようです.勝井(1951)は阿寒カルデラができる前には,いくつかの成層火山からできた「阿寒火山」を想定していました.南部のカルデラ壁をつくっている溶岩の測定値は約二百八十万年前(鮮新世末期)を示しているといいます.この報告書(新エネルギー・産業技術総合開発機構,1992)は関係者しか見られないようですので,その層位はわかりませんが,一応の目安ということで扱ってもいいでしょう.
 阿寒火山は知床グリーンタフ地域に含まれます.グリーンタフ地域とは中新世の海域に起きた広域な火山活動がもたらす緑色に変質した火山岩の分布する地域のことです.
 一方,アイヌの伝説は,阿寒岳(阿寒カルデラ)ができる前は,この地域は「海」であったと語っているわけで,事実そのとおりなわけです.ビックリですね.

 さてその後,阿寒火山は大規模な火山活動を開始し,「阿寒火砕流堆積物(勝井,1958)」を広い範囲にまき散らしました.阿寒火砕流堆積物は多くの研究者が調査した結果,約170万年前に活動を開始し,約21万年前ころまで続いたことがわかっています.

 そしてカルデラ形成後,カルデラ内に「フレベツ岳・フップシ岳・雌阿寒岳・雄阿寒岳」が誕生しました.
 フレベツ岳は約17~11万年前頃の活動,フップシ岳の活動は約7万年前以降と新エネルギー・産業技術総合開発機構(1992)に示されているようです.

 そしていよいよ雄阿寒・雌阿寒の誕生ですが,雄阿寒岳が14,000~2,500年前(玉田・中川,2009),雌阿寒岳は初期の活動は不明ですが,12,000年前,7,500~3,000年前,2,000~500年前頃に活発に活動し,現在に続いているようです(諸資料より編集).歴史時代の活動については,本州と違い文書記録がありませんので不明です.

 残念ながら,雄阿寒岳・雌阿寒岳の誕生は,アイヌの伝説と異なり,地質学では雄阿寒岳が先にできたと判定していますね.

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* 阿寒岳:“阿寒岳”という山は現存しない.俗に“阿寒岳”という場合には「雌阿寒岳」のことを指すようだ.地質学的には,阿寒カルデラができる前の,現在は存在しない火山のことを「阿寒火山」とよんでいる.


阿寒の青沼赤沼
雌阿寒岳頂上に達すると,旧河口の底に不気味な青沼と赤沼が見下ろされる.ここは昔から雷神の降りるところと言われており,青沼をカムイ・シンプイ(神様の井戸)といい,赤沼をフレ・トー(赤沼)といっているが,雷神が降りて遊ぶところであるからだと言われている.
(十勝足寄町・小谷地吉松老伝)
(更科源蔵「アイヌ伝説集」)

 雌阿寒岳の火口湖として「青沼」と「赤沼」が見られるのは有名なことのようです.
 しかし,なぜここで「雷神」がでてくるのでしょう.もしかして,これは有珠山の噴火の時に神々が争って「刀の光が雷光のようにピカピカ光ってみえた」ように,雷神が遊ぶ様子(つまり火山雷)が観測されたとアイヌ民族が記憶しているということなのでしょうかね.


阿寒岳と魔神
世界中を悪戯して歩く魔神が,雷神のカンナカムイ*に追われ逃げ回った末に,雌阿寒岳に来てやっと隠してもらった.そしてそこに一年半くらいも隠れていたが,いつも雷神がゴロゴロと廻って歩くのが不安で,たまりかねて又雌阿寒のふところから飛び出したところ,目早く雷神に見つかり,白い雲の様なものを頭からかぶって,それを翼にしてバタバタと羽搏いて逃げた.逃げて逃げてアプタヌプリ(虻田山現在の有珠岳)に隠してもらうつもりでアプタヌプリに頭を突っ込んだところ,後から雷神の投げつけた槍が飛んできて,それが魔神に当たらず,山に刺さったのでアプタヌプリが爆発してしまったのだという.
それから何年かたって,またまた魔神が阿寒の附近に現れたところ,こんども雷神のため発見されたので,あわてて阿寒川のルチシ(峠)というところから土の中に潜り,山の腰をくぐって阿寒湖の落口のオォコツに出てみると,なおも雷神の追って来る音がするので,雄阿寒の下に潜り込むつもりで行ったが岩が多くて頭を突込むことができず,まごまごしているところへ,後から雷神が槍を投げつけた.
然しこんども槍は魔神にあたらずに,傍にあった小山にささってしまった.不意に槍をさされた山は泣きながら,雄阿寒の上に大雨を降らせて,阿寒の山の見えない遠い西の方に飛び去り,北海道を離れた沖の中に行って立った.それが利尻島であるといい,山の抜けていったあとの沼はリクントーという,今のペンケ沼になってしまった.
そしてこのどさくさ騒ぎの間に,魔神はどこかの土の中にもぐって,わからなくなってしまったという.
(十勝足寄町・小谷地吉松老伝)
(更科源蔵「アイヌ伝説集」)

 相変わらずのスラップスティックな噴火劇ですが,今回は有珠山の噴火まで巻き起こしています.それにしてもダイナミックなアイヌの世界観ですね.
 沼が山の抜けた跡というパタンはいくつかの伝説に共通のようで,ほかにもしばしばでてきます.しかし,山がホイホイと移動して歩くというのは,よっぽどの理由がないといけないようで,アイヌは山に男の神と女の神を割り当て,さまざまな恋愛事情でドラマを作り出します.まるで,ギリシャ神話の恋愛劇を見ているよう.
 ところで,雄阿寒岳のアイヌ名は「ピンネシリ」で雌阿寒岳は「マチネシリ」.ピンネ(pinne)は「男の」で,マチネ(正確にはマッネ(matne))は「女の」であって,こちらも「男女の神」だったのです.

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* カンナカムイ:kanna-kamuy.  kanna=「上方にある」(知里,1956).つまり,「上方にある神」のこと.一般には「雷」を指すらしい.


2017年5月30日火曜日

アイヌの伝説と火山(2)

アイヌの伝説と火山(2)

有珠山

有珠湾(松浦武四郎:東蝦夷日誌第二編より)

有珠岳の創成
毎年春になると,南の神様のところから北へ渡って来る燕が,今年もいよいよ北へ旅立つ時が来たので,神様にお別れの挨拶に行ったところ,神様がいわれるのには,「お前が北へ行く途中で一番気にいった場所があったら,そこへこれをおきなさい」といつって何かを燕にあずけられた.
燕はそれをしっかりと翼の間にはさんで,幾日も幾日も海を渡り遠い旅をつづけているうちにポノショロ(現在の有珠岳のところ)の風景が一番気に入り,それに翼も疲れて来たので,神様から預ってたものをここの地上においた.それが現在の有珠岳になったという.
(吉田厳氏輯「アイヌの伝説について」)
(更科源蔵「アイヌ伝説集」)

 有珠山は洞爺カルデラ(=洞爺湖)の南部にあります.
 いまから約十一万年ほど前に洞爺火砕流が噴出し,洞爺カルデラが生まれました.その後約四万五千年ほど前に中島火山噴出物が活動し,溶岩ドームができたことがわかっています(曽屋ほか,2007).
 その後,おおよそ一万五千年から二万年前に,有珠外輪山が活動を開始(有珠外輪山溶岩類とドンコロ山スコリア)しますが,その時期はよくわかっていません.層位学的な証拠からは,支笏火砕流(四万年前)より新しく,濁川テフラ(1.2~1.5万年前)ことがわかっているだけですが,曽屋ほか(2007)では「1~2万年前」と推定されています.
 有珠外輪山ではその後,「善光寺岩屑なだれ」と呼ばれる有珠外輪山崩壊が起き,善光寺海岸付近の風光明媚な地形をつくっていますが,この時代もよくわかっていません.上記,曽屋ほか(2007)では,七~八千年前と推定されています.
 そのあとは長い休止期に入り,歴史時代に入って外輪山内外での噴火が記録されています.

 さて,この「有珠岳の創成」伝説は,いつころできたものなんでしょうね.
 地質学的には有珠外輪山溶岩が示す時代(1.5万~2万年前)が,たぶん,有珠山ができた時期といってよいものなのでしょうかね.北海道からも旧石器時代の遺跡がいくつか知られているようですから,有珠外輪山の創成を旧石器時代人が見ていたとしてもおかしくはないですが,この頃の目撃談がアイヌの伝説となって残るというのは,ちょっと困難かと.
 してみると,噴煙を上げる有珠山をふくめた風光明媚な洞爺湖周辺の自然,それを愉しむだけでなく,その創成の由来をたずねたアイヌ民族なりの回答(=われわれのいう科学の一種)なんでしょうか.それにしても,詩的な科学です.


有珠岳の噴火口
昔この世界ができたときに,天の神様が地上の人間に幸福を授けてやろうと,沢山の木弊(イナウ*原著はイナワ)をつくって,それを頭に角のあるキラウシコロカムイ(角をもった神)という神様に持たし,下界につかわされた.ところがこのキラウシコロカムイは慾張って,幸福を独りじめしようとたくらんだので,神様が怒って懲しめのため,地下のポクナモシリ(地獄)に踏み落したので死んでしまった.そのキラウシコロカムイが地獄へ落ちて行つた穴が,有珠岳の噴火口になったのだ.
(吉田厳氏輯「人類学雑誌」二九巻一〇号所載)
(更科源蔵「アイヌ伝説集」)

 アイヌには,「あの世へ通じる穴」=「アフンパル」についての伝説がたくさんあります.ところで,それらの話を読むと「アイヌのあの世(ポクナモシリ)」=「和人が考える地獄(仏教的地獄)」とはなっていないので,この伝説はなにか奇妙な感じがします.また,ポクナモシリも「地獄」とするのは奇妙な話です.この話は「和人の価値観」がかなり混ざり込んでいるような気がします.
 それでも,(活火山の)噴火口=「異世界への入り口」というのは,いかにもありそうな話ではあります.


有珠岳の噴火
昔,十勝のコタンに,イモシタクルという名のアイヌが住んでいたが,子供の時から手癖が悪いので,皆に嫌われていた.その男がとうとう病気になって死んでしまったが,世の中にいたとき,あまり悪いことばかりしていたので,神様は彼をカムイモシリ(神の国)へ送ることを許さなかった.行く先のなくなったイモシタクルは,どうせ嫌われるなら,もう少し悪いことをしてやろうと,もう一度地上に舞い戻って,或る家の窓から中に入ろうとしたところ,その家の老婆に発見されて,へラで尻を叩かれたので,びっくりして逃げ出し,あっちこっちで悪戯をしようと,機会を狙ってうろつきながら,虻田の方までやって来たところ,有珠岳の麓で神様に見つけられ,物凄い勢いで蹴飛ばされたが,その神様の勢いがあまりに猛烈だったので,あたりがグラグラと揺れたはずみに有珠岳が抜けてしまい,物凄い噴火になったという.
(工藤梅次郎「アイヌの民話」)
(更科源蔵「アイヌ伝説集」)

 有珠山の噴火がモチーフとなった伝説ですね.火山の話だけにスケールがでかいですね.さて,これはいつころ生まれたものなのでしょう.

歴史時代の噴火活動
1663(寛文三)年:3日前から前兆地震あり.山頂噴火.火砕サージ発生.死者5.休止期:数千年.
17世紀末(地層解析):噴火地点,前兆現象,災害規模など一切不明.休止期:数十年.
1769(明和五)年:前兆あり,山頂噴火.小有珠生成.火砕流発生,家屋焼失.休止期:数十年.
1822(文政五)年:3日前から前兆地震.山頂噴火.オガリ山生成.火砕流発生,死者103名.休止期:52年
1853(嘉永六)年:10日前から前兆地震.山頂噴火.大有珠生成.火砕流発生.休止期:31年
1910(明治43)年:6日前から前兆地震.北麓噴火.四十三山(明治新山)生成.火口45個生成,死者1(熱泥流).休止期:57年
1943~45(昭和18~20)年:半年前から前兆地震.東麓噴火.昭和新山生成.火砕サージ発生,火口7個生成,地殻変動あり,村落損壊,死者1(窒息).休止期:33年
1977(昭和52)年:32時間前から前兆地震.山頂噴火.有珠新山生成.山麓一帯地殻変動,土石流発生,死者3.休止期:32年
2000(平成12)年:4日前から前兆地震.西麓噴火.西山高原・山麓・国道・金比羅山麓に変動.火砕サージ発生,火口(西山30個,金比羅山25個)地殻変動,全町避難.休止期:23年
(各種資料より編集)

 アイヌの伝説ですから,昭和以降は考えなくてもいいでしょう.また,明治の活動も可能性は少ないといえるでしょう.「有珠岳が抜けて」とありますから,やはり山頂噴火でしょうし.
 ということは,1663, 17c末,1769, 1822, 1853の五回の噴火のうちのどれかということになるのでしょう.そして,これらは数十年おきに,つまり世代が変わる前に起きている噴火ですから,以前の噴火の記憶がない1663(寛文三)年の噴火が一番可能性が高いということになりましょうか.


有珠岳の噴火
有珠岳の噴火で有珠の部落は全滅してしまったが,虻田でも長万部方面へ逃げた人達だけは助かった.
そのとき大酋長だけは最後まで部落を捨てず,祭壇に向って祈りつづけていると,イコリの神,レブンゲの神,ウェンシリの神とか赤岩の神*が,それぞれ刀を抜きそれを振りまわして応援にかけつけるので,刀の光が雷光のようにピカピカ光ってみえたが,大酋長は火にやかれて灰になったまま,坐って動かなかった.
噴火がおさまって長万部から戻って来た人が「長老(エカシ)どうした」といって肩に手をかけると,グサッと灰になった長老がくずれた.その後宝物を出して釧路や十勝から,アイヌを買って来て新しく有珠の部落をつくったので,有珠の人間はよくない者が多い,サカナという悪い老人もその一族だ.
(虻田町・遠島タネランケ姥伝)
(更科源蔵「アイヌ伝説集」)

 この噴火はいつのことなんでしょうか.
 この前のエピソードと同じく,五回の噴火のうちのどれかなのでしょうけど,有珠は全滅,虻田もほとんど全滅となれば,詳しく調べれば,特定できそうな気もします.有珠山噴火史上,最大級の人的被害を出した文政噴火が一番可能性が高いのでしょうか.

 それはともかく,エカシが灰となって崩れたというのは,凄まじい話です.
 火砕流というよりは火砕サージ**に直面したのでしょうか.ポンペイの住民の話を思いださせる伝承です.日本でも縄文時代や古墳時代の遺跡から火砕流に巻きこまれた遺体がでているそうですが,これらはみな火山灰の中に埋もれていたのがのちに発掘されたもの.大量の火山灰に埋もれたら,そのときにエカシの遺体は発見されなかったでしょうから.しかし,実際にこういう現象が起きるのかどうかは不明です.
 有珠山の噴火を押さえようとしてか,周囲の地形の神々が加勢した(この記述では,噴火に加勢したのか,噴火を止めようと祈るエカシに加勢したのか判断できませんが)ときに「刀の光が雷光のようにピカピカ光ってみえた」といいます.これはもちろん,いわゆる「火山雷」が観察されたということでしょう.

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* イコリの神,レブンゲの神,ウェンシリの神とか赤岩の神:イコリの神:イコリカムイ(ikori kamuy);イコリの意味は不詳.豊浦町礼文華の南に「イコリ岬」という岬がある.レブンゲの神:豊浦町礼文華のことと思われる.レブンゲの正確なアイヌ語も不明.ウェンシリの神:不詳.? wey-sir=水際の断崖絶壁(知里,1956)のことか.赤岩の神:不詳.いずれもアイヌにとってなにか特別な意味を持つものらしく「神」扱いされている.
 アイヌに食べ物をもたらす動植物を,神の化身とみなす考え方はよく知られているが,巨岩,崖なども神扱いするようだ.
 なお,有珠山のアイヌ語名を調べると,Ye kere use guru イェケレウセグル「軽石ヲ削リ出ス神(有珠ノ噴火山ノ名ナリ)」(永田方正,1891「北海道蝦夷語地名解」)とあり(ただし,これが当時の一般的名称なのかどうか不明.また,有珠山全体を指すのか,噴火中の山体を指すのかもはっきりしない),guru = kur(神,魔のちに人)であるから,有珠山もしくは噴火口も「神」扱いされていたことになる.
 しかし,上記の伝承では,有珠山を神扱いしているようには,受け取れない.

** 火砕サージ:火山灰・岩塊を主体とする火砕流より火山ガスを主体とする火山噴出物のこと.


2017年5月15日月曜日

アイヌの伝説と火山(1)

アイヌの伝説と火山(1)

駒ヶ岳噴火

噴火湾の人々
室蘭の岬の絵鞆部落(エトモコタン)に男三人,女三人の兄弟がいたが,生活が苦しいので噴火湾の対岸に移ろうと,ルクチ岳*を日当てにして舟を漕いでいると,突然に駒ヶ岳が爆発し,噴出した軽石が海上に浮んで,舟を動かすことができなくなってしまった.
(八雲・椎久トイタレケ翁伝)
(更科源蔵「アイヌ伝説集」)

 このあと話は続き,鯱神を呼んで助けてもらい,舟は訓縫と黒岩の間に着き,その後この人たちの子孫は「岬の族(エンルムウタラ)」と呼ばれ長万部や瀬棚の方まで広がって繁栄したといいます.
 でも,その話はわれわれには関係が無いので,駒ヶ岳噴火に集中します.

+++
北海道駒ヶ岳は3万年前より以前に活動を開始した.駒ヶ岳溶岩噴出後,3~4万年前頃に駒ヶ岳岩屑なだれが生じた.その後,2万年以上の休止期をおいて,約6000年前に降下火砕物と火砕流が噴出し,再び500年余りの休止期をおいて,約5500年前に降下火砕物と火砕流(Ko-f)が噴出した.更に5100年余りの長い休止期の後,江戸時代になって火山活動が再開した(宝田・吉本,1998).
気象庁HPより

 この話が3~4万年前のものとは思えないので,約6000年前からこちらの話なのでしょう.またアイヌの一族が世代を越えて繁栄したというのですから,明治以降も除外してもよいでしょう.
 そうすると,可能性のあるのは...,
1640(寛永十七)年 大噴火:山体崩壊.津波発生.
1694(元禄七)年 大噴火:軽石降下.火砕流発生.
1856(安政三)年 大噴火:軽石降下.火砕流発生.
くらいでしょうか...

 このうち,長期間の休止期を破って起こした噴火は山体崩壊を伴った大噴火となっています.岩屑なだれが起き,内浦湾では津波が発生(この時七百余名が溺死と伝えられる)していますから,舟で絵鞆から黒岩あたりに渡ることは不可能かと思われます.
 そうすると,元禄の噴火,あるいは安政の噴火ということになりますが,安政三(1856)年から,世代を越えて各地に繁栄したというのも考えにくいですね.つまるところ,この伝承ができたのは元禄の大噴火のときということになりましょうか....


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*ルクチ岳:現在の八雲町黒岩は,昔はルクチと呼ばれていたらしい.その海岸に黒い岩があり,アイヌは「クンネ・シュマ(黒い岩)」と呼び「シュマ・カムイ(石神)」として崇めていたらしい.それで和人はこのあたりを「黒岩」と呼んだのだそうだ.
ところで,現在「ルクチ岳」と呼ばれる山はない.「ルコツ岳」がそうだという説があるが,「ルコツ」は「道のある沢」という意味で山の名ではないという(更科源蔵,1982).そうすると,この話の当時,その山が「ルクチ岳」と呼ばれていたというこの話には疑問が生じるが,詳細は不明である.


2017年2月3日金曜日

ヒト―異端のサルの1億年

 
ひさびさのヒット.
たぶん,再読することになると思われます.


人類史関係の本は何十冊と持ってますけど,また読むだろうと感じるものは少ないですね.

おすすめです

もっとも,人類関係の本は数年で陳腐なものになってしまう可能性が高いですが.